第13話  バレエ少女・オペラ座風

「……貴女バレエやっているわよね……?」


 目の前の男性が私に問いかけた。 


「まっ、待ってください牧嶋さん!……沙羅ちゃんには、まだ何も話してないんです!」


 結翔が“牧嶋さん”と私の間に入った。


「この人はね、牧嶋洋一(まきしまよういち)さんと言って、店の常連さんなんだけどアルバイトを探しているんだ……」


「……アルバイトですか?」

 

 私に何ができるというのだろうか? 働いたことなどないから役に立てるとは思えない。


「ごめんなさ〜い。いきなりじゃ驚いちゃうわよねぇ。……あのね、アルバイト代を払うから、私のバレエスタジオの生徒になって欲しいの……」


 柔らかい話し方に繊細なしぐさ。時折、細身の体をしならせる。

 ある予感が私の中に生まれた。

 この世界はこういう人は少なくないのだ。

 よくある話だから、それほど気にならない。

 それよりも、アルバイト代を貰って生徒になるという事の方が奇妙で不自然だ。


「大丈夫。この人昔ダンサーで、今はスタジオを経営しているけど、有名な振付師でもあるんだ。……信用はできる人だよ……」


 訝る私に結翔が説明するも、納得がいかない。妙な話だと思う。


「どこかバレエ教室に通っているの?」


「……いいえ。怪我をしてお休みしていたんです。受験もあったので……」


「まぁ! ならいいわよね。今週の土曜日にスタジオに来て欲しいの!」


 牧嶋が体をしなっとさせる。


「ねっ! お願い! 俺の顔を立てると思って!」


「……で、でも……」


「お願い! 沙羅ちゃん!」


「……」


 迷う私に天使の笑顔で結翔が迫る。

 これは天然なのだ。何だかずるい……。


「は……い」


「やったー! 一生恩に着るよ!」


(一生のお願いにしてはずいぶん軽くない?)


 それでも私は断り切れずに承諾してしまった。



 バレエスタジオでのアルバイトは、その週の土曜日から始まった。

 まずは身支度を整えなくてはならない。


 鏡台の前に座る。

 ムースを髪に馴染ませ髪を梳かし、一つに結んだ後シニヨンに結う。

 細かい髪をコームで整え、仕上がりを鏡で入念にチェックする。


 この髪型にするのは久しぶりだ。

 

 その後練習着とバレエシューズ、タオルなど道具一式を携えスタジオへ向かう。久しぶりのレッスンだからトゥシューズは持たない。


 最寄り駅から十分ほどの場所にスタジオはあった。

 三階建ての建物で、一階はバレエ用品店、二階がスタジオ、三階が牧嶋の住居になっている。

 二階窓の下に『牧嶋バレエスタジオ』と看板が架けられていた。

 店舗の横に階段があり、そこからスタジオに入ることができる。


 私は階段を上り恐る恐る金属製のドアを開いた。


(わぁ! かわいいスタジオ!)


 床はリノリウムで、壁に敷き詰められた鏡が曇り一つなく磨かれていた。

 入口の右手にアップライトのピアノ、奥にオーディオ機材が置かれている。


 更衣室で水色のレオタードに着替え、同じ色の巻きスカートを腰につける。


 ……まだ、誰も来ていない。

 着替えが終わると壁に添えられたバーでストレッチを始める。

 バーの感触がひんやりと心地よい。

 体が温まってきた頃、がやがやとお喋りをする声が近づいて来た。

 生徒達だ。

 新参者の私は思わず緊張する。

 振り返ると、肩にレッスンバッグを掛けた女の人達が戸口に立っていた。


(第一印象が大切よ沙羅! しっかり挨拶しなくちゃ!)

 

 と、笑顔で構えるも、


「しっ……失礼しました!!!」


 生徒たちは、私を見るなり回れ右をして逃げるように立ち去ろうとした。


「待ってください!」


 慌てて呼び止める。私がいてはいけないのだろうか?


 生徒たちがひそひそと囁きあっている。

 そして、そのうちの一人が私に向かって、 


「……今日は初心者クラスじゃないんですか?」


 と言った。


「え?」


 私がきょとんとしていると、


「あの……この時間は初心者向けのクラスだと思っていたんですけど……」


 おずおずと尋ねる女性の影から小声で呟く声がする。


「……か、髪も目も明るい色で、……パリ・オペラ座にいる女の子見たい……」


 誰かの言葉に皆がうんうんと頷き、羨望の眼差しで私を見つめる。


「そ……そんな……」


 視線の熱さに溶けそうだ。


 そこへ牧嶋が入ってきた。

 シャツにストレッチ素材のトレーニングパンツに、ヒールのあるバレエシューズを履いている。

 横には色白のふっくらとした女性を連れていた。


「みなさぁ〜ん。どうかしましたぁ〜? ……あら、沙羅ちゃんいらっしゃ〜い」


 そして生徒達に向かって、


「びっくりしちゃうわよねぇ。……こんないかにもって感じのってバレエ少女がいたら……。無理ないわぁ〜」


 牧嶋の言葉に生徒たちが再び“うんうん”と頷く。


「沙羅ちゃんは怪我でレッスンをお休みしていたの。だからリハビリがてらに初心者クラスから再スタートするんですよぉ〜」


 なーる。と納得する生徒達。


 説明の前半は合っているけど後半が捏造されている。

 リハビリなんてするつもりはないのだから……。


 それにしても私がここに呼ばれた理由がわからない。


「さぁ! レッスンの時間ですよ! 今日はピアニストの方がいらしています。……沙羅ちゃんにも紹介するわね。若草美和(わかくさみわ)さんよ」


 牧嶋が連れていたのはピアニストだった。


「……は、初めまして! 有宮沙羅です!」


 慌てて自己紹介をすると、 “こちらこそ”と、美和。


「さあ! 今日も頑張りましょう!」


 掛け声とともにレッスンが始まる。


 ピアニストの指がそっと鍵盤に触れる。

 音楽がスタジオを満たし、私達はそれぞれのバーへとついた。


 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る