第11話  天使の聖なる年

 翌日の月曜日、学校帰りに私は結翔と待ち合わせ、彼のバイト先へと向かった。


 結翔のバイト先は、私達の住む家の近くだった。駅前の賑やかな商店街を抜ける少し前にある細い横道を入ったところにそれはあった。


angeアンジュ


 天使という意味だ。

 結翔にぴったりの店名でクスリと笑う。


「なに?」


 結翔が不思議そうに私を見るけど、教えない方がよさそうだ。


 三階建てのビルで、お店は一階、その上はオーナーの住居になっている。

 カウンターと四人掛けのテーブルが三つの小さな店で、内装は明るく、バーというよりは洋食屋のようだ。


「ね? 感じのいい店だろ?」


「……ええ。呑み屋さんじゃないみたい」


「今は、テイクアウト専門なんだ。オーナーは去年病気をしてね………。まだ夜の仕事は体力的に厳しいから、食材を置いて帰るんだ………」


「……そうなんですね?」


「うん。……店番というか、留守番みたいな感じだな……。お酒も売っているけど、オーナーがきっちり管理しているから、俺が隠れて飲むことはできないよ。……どう? 安心した?」


「ええ。……ママに余計な報告をしなくてすみました」


「ちぇー! なんか俺の周り、急にお母さんが増えたよ!」


「え!? 私の方が年下ですよ?」


 私が憮然としていると、戸口から声がする。


「こんばんは。……あれ? 女の子のお客さんなんて珍しいね」


 中年の男の人が、にこにこしながら店に入ってきた。でも……にこにこというよりも。“にたにた”という表現の方が近い。口元に締まりが無く、掴みどころの無い人に見える。私を見つけると、初対面なのに遠慮もなく近づいてきた。


 人との距離が取れないようで、私の気持ちなんてお構いなしに、ますます近寄って来くる。


「平野さん!」


 結翔がさりげなく私達の間に入った。


「まだ開店時間じゃありません。……もう少し待ってください」


 “平野さん”と呼ばれた人は、結翔の言葉に不満を持った……というよりも、私が引いたことを察して、気を悪くしようだ。

 

 それでも、平野は不機嫌さを隠して、


「ごめん、ごめん……。時間通りに来ると、昔の同僚と顔を合わせるのが気まずいんだ……」


 と、へらへらとしながら言った。


「そんな……気にする必要なんてないじゃないですか。今時、出向ぐらい……」


 と言いかけて、結翔が口をつぐむ。言い過ぎたと感じたようだ。


「……君にはわからないよ。僕がどれだけみじめか……」

 

 平野の顔から笑顔が消え、恨めしそうな表情が浮かんだ。


「そ、そんな! ………機嫌直してください! サービスしますよ! まだ準備ができていないんですよ。今日はちょっと遅れているみたいなんです……」

 

「……もういいよ……」


 平野は聞く耳を持たず、そのまま帰って行った。


「あ――疲れる人だ!!」


 平野が店から遠ざかるのを待つように、結翔が悲鳴のような声をあげる。好き

嫌いを露わにする様は、いつもの結翔とは別人のようだ。


 そのとき、食材を持って厨房から人が出てきた。


「おはようございます!」


 結翔が挨拶をする。この人がオーナーのようだ。

 平野と同じくらいの年の、優しくて穏やかそうな男の人だ。


「やあ! ……あれ? どうかした?」


 オーナーは結翔の浮かない様子に気付くと、ふむと考えてから、ポンと手を叩きながら言った。


「わかった! 平野さんに出くわしたね」


「はい……」


「客と立ち入った話をしちゃだめだって言ったよね? ……特にあの人は」


「はい」


 逆らうことなく詫びる結翔。

 でも、私には結翔の気持ちが理解できた。

 平野の態度は気持ちを逆なでするから。 


 オーナーは念を押すように結翔に言った。


「平野さんはね、人事に不満を抱いていて、とても面倒な人なんだ……」

 

 オーナーの話によると、平野は店の近くにある企業の従業員だった。

 一昨年、出向になる前は同僚と来ていて、元職場を離れた今も頻繁に店を訪れる常連だという。


(でも……出向で職場が移動してからも来るなんて……)

 

 よほどこの店が好きなのだろうか? 

 

「……それにね。“3スリーコール伝説”とかいうのを信じているくらいなんだから……」


 オーナーの話に私は耳をそばだてる。


「平野さんと一緒に働いていた人の話ではね、『電話が非通知でかかってきて、3コールで切れた後、人事から重大な電話が入る』って信じているそうだよ。でも、それは根拠のないデタラメだって、みんな言っている。……まぁ、都市伝説みたいなものだね……」


 本社へ戻ることを願う平野は、人事からの電話を待ち続けているらしい。

 根も葉もない都市伝説を信じるなんて、私には到底理解できない。


「わかったね?」


 オーナーが念を押すと、「はい」と結翔が返事をする。


 オーナーが“よしよし”と頷いた後、初めて私の存在に気が付いた。


「おや! かわいいお嬢さんを連れているね!」


「あ……あの。大家さんのお嬢さんです」


 なぜか慌てふためく結翔。


「ふむふむ。なるほど、……大家さんのお嬢さんね……」


「俺のバイト先を確認したいって。……俺の実家に気を使っているんです」


「へー! お母さんみたいだ!」


 オーナーがにこにこと笑って、私達を見ている。


 私も恥ずかしくなってきた。結翔が慌てた気持ちがわかる。

 でも、悪い気はしないから不思議。


「残念ながらワインは出せないけど、葡萄ジュースがあるから飲んでいくよね?……えっと……」


「沙羅です」


「そうかい。沙羅ちゃん。葡萄ジュースは好きかい?」


「はい!」


 ジュースを飲みながら、私は結翔に話しかける。


「あの……結翔さん」


「なに?」


「あの……。今は元気ですよね? 何かきっかけがあったんですか?」


「そうだなぁ。やっぱりサンティアゴ巡礼を決めてからかなぁ……」


「……そうなんですね?」


「うん。去年の大晦日にライブ配信された動画を見たんだ。……世界中の人が見守る中、年が明けて『聖年』が始まるんだ……」


 『すべての罪が許される聖年』だ。


「サンティアゴの街は、聖年の始まる期待に溢れていて、みんな幸せそうだったよ……。それを見ていたら俺もハイになって、“絶対に行きたい!”って思ったんだ。……それからかな。バイトをするために外出するようになったのは……」


 事情は分からないけど、何かあったのだろう。

 でも、過去がどうあれ、今の結翔は幸せなのだ。


 でも……気になることはまだある。


「結翔さん。ちゃんと寝ていますか? 夜遅くまでバイトして、寝る暇もないんじゃないですか?」


 学校へ休まず行くのはいいことだし、成績が優秀なら尚更だ。でも、一番大事なのは健康だし、健康の素は睡眠なのだ。きちんと寝ているのだろうか?


「やっぱり沙羅ちゃんはお母さんだ」


「茶化さないでください! ちゃんと寝ているんですか?」


「寝てるよ。……授業中」


「えっ!?」


 睡眠がとれていることはいいことだけど、先生は怒らないのだろうか?


「先生はもう俺のことは匙を投げているんだよ。……まぁね。俺の学校は、成績さえキープしていれば、よっぽどのことがない限りあれこれ言わないんだよ」


「……私、先生に同情したくなりました」


「え? 何で?」


「だって、……目の前で居眠りしている生徒が、成績優秀だなんて、私だったら教師辞めたくなります」


「そぉ?」


「結翔さんたら! 先生に失礼ですよ!」


 先生には申し訳ないけど、呑気な結翔を見て笑いたくなる。

 それに、睡眠がとれているなら安心だ。


「……あ、沙羅ちゃん。もうすぐ夕方だよ。そろそろ帰った方がいい。仕事があるから送ってあげられないけど、まだ明るいし、近所だから大丈夫かな?」


「ええ!」


「じゃあ玄関まで……」


 手を振りながら私を見送る結翔。

 その姿は幸せそうで、私はそれを疑うことさえしなかった。


 

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