第9話 【くるみ割り人形第ニ幕より金平糖の踊り】ー天国の鐘ー
―― 音楽が流れる……。
つま弾かれる弦のリズムに合わせ、私は稽古場中央へと進み、90度に曲げた後ろ足を上げて“アチチュード”でポーズ。
チェレスタの音色に乗って、爪先立ちのままステップを踏む。
私は今、『くるみ割り人形』の“金平糖の踊り”を踊っている。
爪先立ちの連続は体力も気力も使うけれど、軽やかに踊らなくてはならない。
だって、ここはお菓子の国。
心は子供のままだけど、昨日までの女の子とは違う。
素敵な王子様と踊って、もしかしたら恋だって出来るかもしれない。
『くるみ割り人形』の作曲者はチャイコフスキー。
彼はチェレスタをフランスで見つけて、他の作曲家に知られないように、こっそりとロシアへ運び込んだ。
チェレスタはピアノを小さくしたような鍵盤楽器で、“天国のような”という意味を持つ。
キラキラとした金属音が可愛らしい。
音楽室に飾られた絵を思い出す。
立派な、でも少し怖い顔の人がそんなことをしたなんて、可笑しくて笑ってしまったけど、気持ちは分かる。
だって……チェレスタの音色は天国の鐘のように、そっと私に囁くから。
独り占めしたくなったって不思議じゃない。
最後は、軸足の膝にもう片方の爪先を付けながら回転をする“ピケターン”!
ピケは、“刺す”という意味。
言葉通り、軸足を床に刺すようにして立ち、ターンをしながら稽古場を横切る。
進行方向の腕をアン・ナ・ヴァン(前)、もう片方をア・ラ・スゴンド(横)で
爪先で半円を描くように軸足をア・ラ・スゴンドにし、重心を移動させて立つ。
軸足に付ける足の膝は耳の方向へ。
胃の前で籠を抱くように、両腕をアン・ナ・ヴァンにする。
その後両手をア・ラ・スゴンドに開く。
その繰り返し……。
足だけではなく、腕が体を巻き込む勢いを利用しながら回るのだ。
一回。
二回……。
ターンは順調に進んだ。
(もう少しで曲が終わる!)
フィニッシュは目前だった。
(あと少し! 軸足で真っすぐ上に立つのよ!)
……が……。
―― ガクン!!
回転のバランスを崩す。
どうしたの!?
トゥシューズの手入れが悪かったの?
床が汚れていたの!?
足が滑り転倒してしまった!
足が痛い!
体が……。
体が重い。動かない!!
誰か助けて!
先生!
ママ!!
―― ハッと……
……目が覚めた。
(……夢……)
時計は八時を指していて、カーテンの隙間から光が差し込む。
(……あんな夢を見るなんて……)
まだ半年も経っていないのだから、無理もないのかもしれない。
(……日曜日でよかった……)
こんな気持ちで学校へは行きたくないから。
でも、午後には結翔に会うのだから、気持ちを整えなくては……。
身支度を整え、朝食を済ませる。
お気に入りのハーブティーを淹れ、ベランダから身を乗り出し空中庭園を眺めた。
持て余した気持ちを晴らしてくれることを願いながら……。
入学式から二週間が経っていた。
結翔の言葉通り、スペイン語の授業は私のハンデを考慮して進められた。
まず、外部入学者のための補習クラスがあり、少人数制のカリキュラムが組まれている。
それに加え、一般のものと並行して、補習クラス用の試験が用意されていた。
結翔のバイトが無い日曜日。
晴れた日は私の家の空中庭園で、雨の日はその下の居間で結翔がスペイン語を教えてくれる。
結翔は教え方が上手だった。そして何よりも楽しい。
少し前の暗い気持ちが嘘のようにに晴れていく。
レッスンの合間にスペインの話もしてくれる。
音楽、芸術、歴史、文化、建築。
その知識は幅広く深いもので、私は興味深く結翔の話に耳を傾けた。
有名なアルハンブラ宮殿のあるグラナダが、十五世紀まではイスラムの支配下にあったことを初めて知った。
それからサンティアゴ巡礼の話もしてくれる。
サンティアゴ大聖堂は、天使のお告げにより聖ヤコブの墓が発見された記念に建てられた聖堂だ。
巡礼者たちは、聖ヤコブの象徴の“ホタテ”と“ひょうたん”と杖を携え、長い旅をする。
徒歩では百キロ歩けば巡礼として認められ、自転車ならば二百キロの完走が必要だ。
結翔は、パリからスペインの国境近くにあるサン=ジャン=ピエ=ド=ポーまで、交通機関を使って移動し、そこから歩いてサンティアゴを目指す。
「……どのくらい歩くんですか?」
「サン=ジャン=ピエ=ド=ポーからだと780キロくらいかな?」
事も無げに言う結翔。
780キロと言えば大変な距離だ。
旅費は人によってまちまちで、アルベルゲと呼ばれる巡礼者用の宿と格安チケットを使って、二十万くらいで賄(まかな)える人もいるらしい。
「……でもね……」
結翔がため息をつく。
「
「残念ですね。安上がりで助かるのに……」
「うん。……でもね、相部屋だったり自炊だったりで、十分休めないし、連泊もできない……」
だから、普通のホテルも併用すると、それなりに費用がかかるらしい。
確かに、安全な宿で十分な休息をとった方が、旅は無理なく続けられるだろう。
一人旅なら尚更だ。
「早朝に出発して、正午くらいで、その日の歩きは終わり。……長旅になるから無理は禁物なんだ……。一日二十キロくらいが目安だね……」
結翔のプランは堅実で、慎重な性格が垣間見られる。
これなら大丈夫そうと安堵する私。
「……でね。いろいろ調べたところ、このくらい掛かるんだ……」
結翔が指で金額を示す。
かなりの額で、高校生が貯めるとなると大変そうだ。
「その上、ハイシーズンに行くだろ? だから、もう少し用意しておく……」
「……それで節約をし過ぎて、飢えて倒れてしまったんですね?」
無理な節約を止めた結翔は、収入を増やすために、単発のバイトも始めた。
「それにさ! やっぱり好きな街に行ったら、連泊したいんだ!……ゆっくり見て回って、バルをはしごするのも楽しそうだろ? 食事が美味いんだ!」
「……飲むんですか?」
バルは、スペインやイタリアにある軽食堂で酒も飲める。
旅の解放感から、ついグラスに手が伸びるかもしれない。
酒場の雰囲気に呑まれて羽目を外す懸念もある。
ジト目で結翔を見ると、
「の、飲まないよ! そんな目で見ないでくれよ! ……怖いよ沙羅ちゃん!」
駄目よ!
見逃すなんてできない!
「信じてくれよ〜!」
「……本当ですね?」
懇願する結翔に、うなずく私。
それなのに……。
「……でも、
「うーん?」
私が首を傾げると、
「厳しいなぁ……」
結翔が笑って、つられて私も笑う。
「でも……食事はちゃんと摂ってくださいね。食べたくても食べられない人もいるんですから……」
「何それ?」
今度は結翔が首を傾げた。
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