第8話  スパニッシュレッスン 

 ふみゅー。

 

 力なくため息をつく。


 私は入学早々障害にぶつかった。

 この学校の経営母体はスペインの修道会で、スペイン語の授業がある。

 中学生からスペイン語の授業を受けている生徒に囲まれて、高校から編入した自分は取り残された状態になってしまった。

 皆が当たり前のように理解している文法やフレーズが全く身についていないどころか、アルファベットを一から覚えるところからスタートしなくてはならない。

 他のクラスメイト達との差を考えると、気持ちが海の底へと深く沈んでいく。


 あ〜ん。


 机の前に座っても勉強が手につかない。

 気分転換にと、飲み物とテキストを持って、空中庭園へと足を運んだ。

 空は晴れていて、四月の風が肌に心地よい。時折、小鳥がさえずり、木々を揺らす。


 ……それなのに……。

 私の心はどんよりと曇ったままだった。


「どうしよう……」


 思わずつぶやくと、


 ―― クツクツ……。

 

 背後から忍び笑いが聞こえる。

 誰だかわかる。あの人しかいない。


「結翔さん!」


「ああ、ごめん。ごめん。沙羅ちゃんの周りだけ空気が淀んでいるよ」


 笑いをかみ殺した結翔が立っていた。


「それを見て笑っていたんですか!?」


「ごめん。ごめん」


 結翔は笑いながら、突然に、


Holaオーラ☆」


 と、話しかけてきた。

 

 スペイン語だ! それも凄く上手い。勉強をして間もない私にも分かるほどに。


 どぎまぎしていると、


「ほら! 挨拶をしていているだけだからね! 知っている言葉で返事をして!」


「あ……あの……結翔さんが言っていた、“困ったら”って、スペイン語のことですか?」


「うん」


「どうして分かったんですか?」


「知り合いがね、沙羅ちゃんの学校に中学生の時に編入して苦労したんだ。沙羅ちゃんの制服を見て、同じ学校だと分かったよ」


「そうだったんですか。それにしても結翔さんはスペイン語がお上手ですね」


「うん。……近々旅行するつもりだから、独学で勉強したんだ。で、沙羅ちゃんのお手伝いに来たわけ……。外出しよう!」


「え? 外出?」

 

 突然のことに、きょとんとする。

 スペイン語と何の関係があるのだろう。


「エスタス リスト?」


「えっ!?」


「準備はできた? って聞いたんだよ。玄関で待っているからね!」


「は、はい!」


 何をする気かしら?


 戸惑いながらも、部屋に上着と鞄を取りに行き、結翔の待つ玄関へと走って行った。


「今から日本語禁止! スペイン語だけで話すんだ」


「ええぇぇぇぇ!」


 突然の宣告に慌てふためく私。


「ははは……! 厳しすぎたね。日常生活の中でスペイン語を使う練習をするんだ。……そうだなぁ。まずはお茶をしよう。ドンデ エスタ サロン デ テ?」


 え……ちょっと待って! えっ!

 そうだ “カフェはどこですか?” そう聞いているんだわ!

 とりあえず、知ってる言葉で……。


「エ、近くですよエスタ セリカ


 正確に言うと五分くらい歩くけど、近いことに変わりはない。

 私は結翔の質問に、何とか答えることができた。


Ajaアハ


 これは軽い相槌のようなもの。

 結翔が納得したので、第一関門は突破したようだ。

 

 カフェに入っても、スペイン語で話し続ける。

 ブロークンで、間違いだらけだったけど、結翔は私の言いたいことをくみ取って、会話を繋げてくれた。

 

「お茶の後は買い物でもしない?」


 誘われるままに洋品店へ入る。


「オラ! ケ デセア?」


 結翔が、指を揃えて右手を胸に当ると、少しかがんで私を見た。

 召使みたいで、ちょっと格好いい。店員の役を演じているのだ。


 ……と……それどころじゃない。


 会話を続けなくてはならないのだ。これは習った覚えがある。

 

  “いらっしゃいませ! 何かお探しですか?”という意味だ。

 

「……スカーフブファンダ


 と、私が答えた。


何色がケ・コロール・好きレ・グスタール?」

 

「……水色アスル・クロラ……」

 

 と、やり取りが続いた後、私が水色のスカーフを手に取り、


いくらですかクエンタ コスタ?」


 と、尋ねると、

 

千円です。ミル イエネス ありがとうごグラシざいますアス


 と、結翔が笑う。


「沙羅ちゃん合格だよ!」


「やったー!」


 こうして私は、水色のスカーフを買うことがでた。

 スペイン語で買い物ができるなんて!

 ついさっきまで、スペイン語に悩まされていたことが嘘のようだ。


「楽しい?」


 お会計を済ませた私に結翔が尋ねた。


「はい!」


「よかった! 沙羅ちゃんは真面目そうだから、コツコツ勉強を続ければ、クラスメイトに追いつくだろうけど、嫌々勉強するんじゃ辛いんじゃないかと思って。……新しいことを覚えるのって、楽しいことなのに勿体ないよね?」


「はい! ありがとうございます!」


「それにね。学校も沙羅ちゃんのハンデは考慮してくれるはずだよ」


「そうなんですか?」


「うん。だから心配し過ぎない方がいい。……もっと気楽にね!」


 初めて聞く話だった。

 もっと早くに知っていればと思うけど、結翔の口から聞いたからこそ、安心できたのかもしれない。


「せっかくスペイン語の勉強をするのだから、歴史や文化にも興味を持ってみて! きっと楽しいよ……」


「……スペインの文化ですか?」


「そう。……スペインはね、他のヨーロッパの国とピレネー山脈で遮られていることや、アフリカに近いせいで、独特で複雑な文化を築いたんだ。それと国土の大半を占めるメセタという不毛な台地や、厳しい自然環境がスペイン人の情熱的で誇り高い気質に影響したって言われているんだ……」


 スペインなんて、フラメンコとパエリアくらいしか知らなかったけど、俄然興味が湧いてきた。

 

「結翔さんは、スペインのどこへ行くんですか?」


「俺はね、サンティアゴ=デ=コンポステーラに巡礼に行きたいと思っているんだ」


「……初めて聞きます。何ですか? それ?」


「スペインにある有名な聖堂だよ。……徒歩で巡礼に行くんだ。ルートはいくつかあるけど、イベリア半島の大西洋寄りの内陸部にある【フランス人の道】を使う。……パリを起点として、ピレネー山脈を越えて、アルベルゲという巡礼宿に泊まりながら、約四十日間歩き続けるんだ……」


 わかった! 

 

 いくら私が鈍くても、これはわかる。

 結翔は旅費を貯めるために、アルバイトや節約をしているのだ。


 彼は、夏休みの中旬から九月にかけて、旅に出ると言った。そうすれば、ぎりぎり出席日数が間に合うらしい。

 どんなに前の晩遅くなっても、休まず学校へ行っていた理由がようやく理解できた。


「でも……どうしても今年中なんですか?」


 時間があれば、ゆとりをもってお金を貯められるのに。


「うん。……今年は聖年といってね、この年に巡礼をした人は、すべての罪が許されるんだ……」


「罪?」


 私は、きょとんとして結翔を見つめた。

 結翔に許されたい罪があるとは到底思えない。


「ま、……まぁね。せっかく行くならスペシャルな年に行きたいじゃない?」


「まぁ! 結翔さんったら! 意外とミーハーなんですね!」


 ほっとして笑いがこぼれる。結翔に罪なんてあるはずがない。

 結翔を知るたびに、親しみが湧いてきて、この人をもっと知りたいと思う。


 その夜、私はサンティアゴ巡礼について調べた。

 キリスト教の三大巡礼地の一つだ。


 巡礼の出発地点は、フランスとスペインの国境にあるサン=ジャン=ピエ=ド=ポーという街だ。

 この街からピレネー山脈を超え、小麦畑が延々と続く道を歩き、古城や石造りの教会を堪能しながら、サンティアゴ=デ=コンポステーラに辿り着く。

 最後に大聖堂で荘厳なミサにあずかると、巡礼者たちの旅は終わるのだ。


 小麦畑の画像に目をやる。

 吹きわたる風が、青々とした麦の穂を揺らしている。

 目をつむると天使のような結翔が、大聖堂の門をくぐる姿が心に浮かんだ。




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