第5話 常夜灯 

 鍵を手にすると、【右側】二階から空中庭園に出る。


「わぁ! いいお天気!」


 昔と変わらない。

 小さな花壇にガゼボ、鉢に植えられたオリーブの枝を見ると、感動で心が震える。

 

 【左側】に目をやる。


 間借り人は、どんな人物なのか? 何故家から出ないか? 何故両親は何も言わないのか? 

 自分だけが何も知らされていない。


 私は【左側】の戸口に立って中を伺った。

 

 “こんにちは! お元気ですか?”

 

 そう声をかければいいのだろうか。

 

(ううん。やっぱり駄目だわ)


 押しかける理由が見つからないまま、しょんぼり来た道を戻ろうとすると、


 “うーん”


 扉の向こうから、苦しそうな唸り声が聞こえる。


「だっ、大丈夫ですか!?」


 慌てて引き返し、扉越しに声をかけた。


 “うーん”

 

 私の問いに返事はなく、唸り声だけが聞こえてくる。


 “う〜〜ん”

 

 声がますます弱くなり、心に不安が募る。


 ガチャリ。

 

 【右側】に通じる鍵で扉を開くと、左側のリビングに出た。


 カーテンを閉め切った部屋は、暗く気味が悪い。恐る恐る歩くうちに、暗闇に目が慣れてきた。

 1メートルくらい先に、祖父のソファーを見つけて、心がほっこりとする。


「きゃっ!!」


 誰かが私の足首をつかんだ!


「だ、誰!?」


 “うぅ〜〜ん” 


 人が転がってる! 男の子が転がりながら唸り声をあげてる!


(この人が怪人なの? 普通の男の子みたいよ!? それに具合が悪いみたい)

 

 放ってはおけない。


「大丈夫ですか!? お医者さんを呼びます!」


“うぅ〜ん”


 私が、右側に戻ろうとすると、足首を握る力がいっそう強くなった。


「は、離してください! お医者さんが呼べません!」

 

 掴んだ手を振り払おうと、足をばたばたと動かすも、怪人は転がったまま足首を離さない。

 足元に目をやると、口をもごもごと動かしながら何かを言っている。


「えっ!? なんですか?」


 屈んで耳を彼の口元に近づけた。


 “オナカガ”

 

「えっ!? 聞こえません!」


「お腹がすいたんだ……」


 怪人は私の足首から手を離すと、消え入りそうな声で言った。


「待っていてくださいね!」


 私は、駆け足で【右側】へとんぼ返りをした。


 それから五分後、私は『ぷるるんプリン』を持って、彼のそばに座っていた。プリンは三個入りのパックで、そのうちの一つを渡す。

 怪人は起き上がると、美味しいとも不味いとも言わず、俯いたままプリンをちゅるちゅると食べ始めた。


「もう一つ食べますか?」


 怪人は無気力に頷いて、渡されたプリンを再びちゅるちゅると食べる。

 意識が朦朧としているようで、手元にあるプリンさえ見ていない。


「大丈夫ですか?」


 こくりと頷くと、そのままごろりと床に転がったまま、寝てしまった。


「あ、あの……大丈夫ですか?」


 声をかけるも返事がない。

 

(大丈夫なのかしら? お医者さん呼ばなくても平気なの? お腹が空いただけなの?)


「あのー」


 返事がない。

 恐る恐る顔を覗き込むけれど、くしゃくしゃの前髪が邪魔をしてよく見えない。

 そっと指で髪をはらう。

 

 初めて見る怪人の顔。



 ―― どきん。



 心臓の音が喉元まで響いてくるようだ。


 あどけない寝顔がのぞく。

 目をつむっているけど、通った鼻筋と長いまつ毛を見れば、整った顔立ちなのがわかる。


(や、……やだ……! なにどきどきしているの!? そうよ! 生活に疲れたおじさんを想像していたから、驚いているだけよ!)


 自分に言い聞かせながら、冷静さを取り戻すと再び彼を見る。

 

 年齢は……わからない。でも、自分と同じくらいに見える。

 衣服の趣味は悪くなく、育ちはよさそうだ。


 意識を取り戻した怪人が“うーん”と唸った。


「大丈夫ですか?」


 “ああ”という力ない声がして、“お腹が空いていただけなんだ”と振り絞るように言うのが聞こえた。


「お医者様を呼びます」


 と言うと、


「だめだ!」


 と、突如大声で言われて驚いてしまった。

 

 医者を呼ぶべきだろう。何かあったら取り返しがつかない。

 でも……。見開かれた眼は悲しそうで、心が痛くなるほどだった。


 怪人はいつの間にか眠り込み、くーくーと寝息をたてている。


 気にはかけつつも、ひとまず右側へ戻ることにした。




「沙羅ちゃん! 【左側】へ行ったの!?」


 食堂へ戻ると帰宅した母が待ち構えていた。

 母は鍵置き場に鍵がないことに気づいていた。


 私は悪い評判を聞いて様子を見に行った。でも、中には入っていない。戸口のところで引き返した。と嘘をついた。


「あの人は誰? 近所で噂になっているわよ!」


 お説教が終わると、今度は私が母を問い詰めた。

 あの人のせいで、学校で変な目で見られていることは、心配させたくないので黙っていた。


 母は一瞬言葉に詰まったけど、


「パパの知り合いの息子さんなの。塔ノ森とうのもりさんというのよ。塔ノ森結翔とうのもりゆいとさんというの」


 と、説明してくれた。


「へー!」

 

 初めて聞く怪人の名前。

 意外! ちゃんとした名前が付いてる。


(……当り前よね。あはは)


 結翔は都心の進学校に通う高校三年生で、成績も優秀だという。私よりも早くに家を出て帰宅が深夜になるために、顔を合わせることがなかったようだ。

 

 母は、近所で噂になっていることも知っていたけれど、学校には毎日行っているからと、様子見をしていたと言った。


「でもね。外泊が多いのが気になるの。続くようならば、ご両親に相談するつもりよ。パパの知り合いの息子さんを預かっているから、無責任なことはできないわ。塔ノ森さんの態度次第では、出て行ってもらうかもしれないわね……」


 母の言うことはもっともだと思う。


 でも……。


 結翔は、医者を呼ぶことを拒んだ。人に知られたくないからだ。

 人に知られて、家に戻されることを避けたかったのだ。

 

 でも、やはり出て行ってもらうべきだろう。


(仕方がないのよ沙羅。そうすべきだわ)


 自分に言い聞かせるも、心が揺らぐ。



 夜が更けた。

「おやすみなさい」と、挨拶をして私は自室へと戻っていった。

 寝支度を整え、ベッドに入るもなかなか寝つけない。

 

 部屋へ戻ると、窓から【左側】に明かりが点いているのが見える。

 結翔は、立ち上がって明かりを点けることができたのだ。

 今日の所は大丈夫そうだと、私は安堵した。


 ……ふと……寝顔が心に浮かぶ。

 

 絵本に描かれた天使のような寝顔。

 懐かしい気持ちが私を包んだ。


 オレンジ色の常夜灯がカーテン越しににじむ。

 

 いつしか、私は結翔の無事を願う言葉を探していた。 

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