全部お前のせい

二月こまじ

第1話

 窓の外からミーンミーンと蝉が気が狂いそうな程鳴いている。

 じっとりと背中にかいた汗がワンピースに張り付いて気持ち悪い。

 だいたい勇気を出して買ったこのワンピースが思ったよりもチープな出来で、ラブホのコスプレみたいなテラテラのスカートだったのがまずいけなかった。

 それにネイルも、もっと薄いピンクとか、ラメだけ塗るとかにすれば良かったのに、大人っぽい濃いレッドにしたのは失敗だった。むしろ安っぽい感じがますます増幅された気がする。

 なによりも最悪だったのはファンデーション。YouTubeで若菜ちゃんがやってるのと同じようにやった筈なのに、なんでこんな塗っても塗ってもお化けみたいになっちゃうんだろう。

 眉毛はあんまり弄る勇気がなかったから殆ど変わってないけど、もっと弄らないと化粧してる感じが全然しない。でも、弄る勇気は流石にない。夏休み明けにいじった眉で登校して友人に茶化されるのは死んでも御免被りたい。

 口紅だけは、映画の中の女優が塗ってから男優にキスするのがすごく素敵で、どうしてもそれと同じ物を使ってみたかった。なので、高かったけどわざわざ会員登録して化粧品会社から取り寄せた。

 その女優さんみたいにくちびるの内側に塗って、ゆっくり口を合わせ、んっと馴染ませて鏡を見る。そうするといつもよりぽってりして見え、唇だけは色っぽい大人の女に変身出来た気がした。


 初めての化粧は大失敗で、でも、口紅だけは気に入った。


 最悪の気分だけど、とりあえずせめてもの救いと鏡の中で唇だけをじっと眺める。


(こんな唇、絶対キスしたくなるに決まってる)


 すると気分が少し浮上してきた。


 ニコッと鏡に向かって微笑んだ所で、突如バタンと部屋のドアが開いた。


「あ……」


 鏡越しに部屋に入ってきた弟と目があった。不慣れな化粧にワンピースを着ている自分を凝視しているのが分かってしまう。

 驚きのあまりお互い硬直してから、数秒だったのかもしれないし、何十分もたっていたからもしれない。

 弟が沈黙を破った。


「か、可愛いよ……」


 どこから出てるんだその声は。と突っ込みたくなる程の、蝉を潰したような声だった。


「う」


「ん?」


「うわあわあわあわん!!!!出てけーー!!出てけー!!!!!」


 鏡の前に置いてある化粧品をありったけドアにいる弟に投げつける。


「ちょっ!落ち着けよ! 」


 最低だ!最低だ!!最低だ!!!ネイルもファンデーションも、マスカラも全部投げつける。お気に入りの口紅を手に取ったところで弟が、分かった分かったから、と部屋の外にそそくさと出て行く気配がした。


 1人になっても、嗚咽は止まらずなかなか泣き止む事が出来ない。鏡の中の自分は涙で溶けたファンデーションとマスカラでますます酷い有り様だ。

 両親は出掛けてるし、弟も部活に行ってるとばかり思っていた。弟は野球部のエースで夏休み中にも関わらず毎日のように部活に勤しんでる。スポーツ刈りに表情の少ない武士を彷彿させる太い眉がキリッとしていて素敵と、密かに女子に人気なのは本人だけが分かっていない。

 世界で一番見せたくない人間に、よりよって見られてしまった。


「死にたい…… 」


 なんでこんな事をしてしまったんだろう。冷静になってみると夏の暑さのせいで頭がおかしくなってしまったとしか思えない。

 少しだけ、ちょっとだけ冒険してみたくなるなんて。大体夏はTVだってやれ特番だなんだと浮かれ過ぎなのだ。そうだ、そのせいでーー


「……カルピスソーダ持ってきたぞ。飲むか?」


部屋の外で弟の声がした。


「ーーうん」


ちょっと考えてから返事をした。弟は器用に足でドアを開けて入ってくる。

 手には水玉のガラスコップが二つのったお盆を抱えていた。


「ほら…… 」


 大きな手から直接手渡されたガラスコップにはしゅわしゅわと音を立てて弾けるカルピスソーダが満タンに入っている。


「ありがと……」


 受け取ると氷がカラコロと音を立てる。


 カルピスソーダはこの間歌番組でアイドルグループの若菜ちゃんがお気に入りの飲み物だと言っていたのだ。

 このワンピースもその時着ていた若菜ちゃんにそっくりの模造品。

 そして、その時弟が「この子可愛いね」と言っていたのも、多分全て覚えていての『カルピスソーダ』なのだろう。


 指先が震えるので、氷はずっと小気味良い音を立てている。

 耳まで赤い自覚がある。情けなくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて、わけが分からず後から後から出て来てしまうこの涙も、炭酸に溶けてしまえばいいのに。


「兄貴、あのさ、本当に可愛いから」


 ぶっきら棒な言い方だが、先程よりはっきりとした口調だった。

 可愛いわけはないのだ。もうすぐ19になる特別華奢でもない男がワンピースを着て、お化けのような化粧をしているのだ。

 それも実の兄が、突然ドアを開けたらこの始末だ。それなのに、この弟は、こんな事を言ってのける。


「はぁぁぁ」


 思わず大きな溜息をついた。

 しょうがない。本当しょうがない。


「な、何だよ。ダメだったか?可愛いって言ったら」

「いや、しょうがないなって思ったんだ。俺のせいじゃないなって」


 お前が格好良すぎのが悪いんだ。


 この後どうなるかなんて分からない。

 ひと夏の思い出で済むかもしれないし、そうじゃなくても……。


 俺は弟の唇にそっと顔を寄せた。

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