銀の王と先代黒の王 2

(2)本編から十五年前くらい。銀の王は六十歳ちょい。



 執務室にて今日予定していた書類を全て片付け終えた銀の王は、椅子の背もたれに背を預け、ふうと息をついた。凝り固まった肩をぐるりと回し、眉間を指で揉んでから、机の上にあるティーカップに手を伸ばす。

 口に含んだ茶はすっかり冷めてしまっていたが、乾いた喉にはその冷たさが心地よかった。

 さて、そろそろ風呂にでも入るか、と銀の王がそう思ったところで、突如部屋の窓が開いた。ここは八階だというのに何事かと思った銀の王が窓へと目を向ければ、そこにいたのは黒の王だった。

「よ!」

「…………来るなら来ると、事前に連絡せよ」

 許可を得る前に勝手に部屋に入って来た黒の王を、銀の王が睨む。しかし黒の王に堪えた様子はなかった。

「いやー、相変わらずこの国は寒ぃのなんのって。あ、どうせすぐ帰るから、茶ぁはいらねぇぞ。ちょっくら用事があって銀に来たんで、ついでにお前の顔を見て帰ろうかと思っただけなんだわ」

 そう言って笑った黒の王に顔を顰めた銀の王だったが、黒の王がこうして何の前触れもなく訪れてくるのはいつものことなので、ひとつ溜息をついただけで終わらせる。

「……次代はどうだ」

 五年前にようやく発見された次代の王のことを口にすると、黒の王の顔がぱぁっと明るくなった。歳をとってその顔には皺が刻まれているというのに、いつまで経っても子供のような表情を見せる、と銀の王は思った。

「あのクソガキな! いやぁありゃ俺以上の天才だぜ! 俺も大概天才だが、あいつはきっとその上を行くぞー。十歳前後だろう現段階で、大人顔負けの動きを見せやがる。まだまだ俺には敵わないが、もう五年もすりゃあ即位できるだろうよ。俺は晴れてお役御免ってやつだ。いやぁ長かったわー」

 うんうん、と頷く黒の王をじっと見つめた銀の王が、ぽつりと呟く。

「…………五年も、かかるのか」

「あん? そりゃあと五年は必要さ。さすがに十歳のガキに王を任せる訳にゃあいかねぇし、そもそも俺みてぇな老いぼれにも勝てねぇような奴を王にする訳にゃあいかんだろうが」

 頭かたかたのお前らしくもねぇ発言だなぁ、と言って笑った黒の王に、しかし銀の王は表情を崩さない。

「耐えられるのか」

「おお? 何の話だ?」

「茶化すな。答えよ」

「俺の年齢の話をしてるんだったら、そりゃもう大概衰え切ってるから大変だけどよ。でもまああと五年くらいなら、どうとでもなるってもんだ。これでもまだまだ国一番の諜報屋兼暗殺者だからな。全盛期にこそ劣りはするが、その分この天才的な頭脳の方が冴えわたっている訳で、」

「もうい!」

 調子よく言葉を並べていた黒の王は、銀の王の突然の怒声に口を噤んだ。そんな彼を、銀の王がねめつける。

「呆れるほどに良く回る舌だ。この私が気づかぬとでも思ったのか」

「いやいや、何の話だよ。素直に衰えは認めてるだろーが」

 そんなピリピリすんなよ、と言葉を続ける黒の王の肩を銀の王が掴む。そして銀の王は、そのまま力任せに黒の王を床へと引き倒した。

「いってぇ! 何すんだお前!」

「うるさい、黙れ」

 抗議する黒の王に、しかし抵抗する様子はない。そのことに内心でぎりりと歯噛みして、銀の王は乱暴に黒の王のズボンの裾を押し上げた。

 あ、という黒の王の間の抜けた声が聞こえた気がしたが、視界に入ったあまりの光景に、それは右から左へと抜けていく。


 老齢になっても未だ逞しい筋肉に覆われたその脚は、真っ黒に変色していたのだ。


 無言のままもう片方のズボンも捲れば、そちらの脚も同様に黒に染まっている。異常に浮き出た血管は、まるでその内部に何かが住み着いているかのようにぼこぼことうねり、醜悪と呼ぶに相応しい有様だ。

 じっとその光景を見た銀の王が、次いで顔を上げて黒の王を見やれば、彼は悪戯がバレた子供のような顔をして目を逸らした。

「……何だこれは」

「いや、なんつーかだなぁ、」

「いつからだ!」

 思わずといった風に出た大きな声に、黒の王が少しだけ目を丸くする。そして彼は視線を彷徨わせたあと、銀の王が見たことのない表情をして、銀色の髪にぽんと手を置いた。

「取りあえず、お前は落ち着け。大丈夫だから」

 大丈夫なものか、と飛び出そうになった言葉を、ぐっと堪える。それでも収まらない感情のままに黒の王を睨めば、黒の王は苦笑した。

「ああ、いや、まあ、そうだな。大丈夫ではねぇな。だけど、仕方ねぇんだよ。俺はまだ王だから」

 その言葉に、銀の王は思わず拳を強く握った。それを言われてしまったら、彼はもう許容するしかなくなってしまう。

 そんな銀の王にもう一度苦笑した黒の王が、自分の脚をそっと撫でた。

「次代のガキが見つかって一年後くらいだから、四年前くらいかねぇ。さすがの俺も歳には敵わないらしくて、どうにも身体の動きが鈍って来たんだな。だけど、俺には次代を鍛え上げるっていう役目が残ってる。途中段階までは他の連中に任せても良いんだが、もうすぐあいつは俺以外じゃあ相手にならないほどに強くなるだろう。そうなったときに、俺の持てる技術を全て継承するためには、俺は万全の頃の俺と比べても遜色ないくらいに動けないといけねぇ。……筋トレとかなぁ、増やしたんだけどなぁ。やっぱこう、衰える一方なんだよなぁ」

 そう言って黒の王は笑ったが、銀の王は笑う気になどなれなかった。

「でもな。俺は次代のために、常に越えるべき目標でいなきゃならねぇ。少なくとも、あいつが全盛期の俺に届くまでは、俺は黒における最強でなきゃならねぇ。それが、黒の王の役目だからな」

 判っている、と銀の王は思った。今回ばかりは、この忌々しい怠惰な王の言うことは間違いなく正しい。己に課された使命を全うしようとしているこの男は、間違いなく黒の王なのだ。

「あとはきっと、お前の想像通りさ。俺は今、半恒常的にヴェルを憑依させている。本憑依なんてさせたら速攻でぶっ倒れるから、いわばヴェルの足先を俺の脚にちょっと突っ込ませてるような状況ではあるけどな。で、これはその副作用だ。お察しの通り、この脚はもうほとんど死んでる。そりゃ、死の体現であるヴェルを長期間憑依させてるんだから、こうなって当然だ。寧ろ、よく脚だけで留めたもんだって褒めて貰いてぇくらいだわな」

 そう言ってふざけて見せた黒の王に、銀の王はやはり笑うことができなかった。

「今はまだ膝下ぐらいまでの侵食で留まってるが、あのガキが即位する頃にゃ、恐らく脚の付け根までどっぷりイカれちまってるだろうなぁ。腕の方はまだ使う機会が少ねぇからなんとかなってるが、残りの五年でガキの相手をすることを考えると、こっちも駄目になるかもしれねぇ」

 世間話をするときと変わらぬ声で言う黒の王に、銀の王は何度か口を開きかけたが、結局声を出すことができなかった。

 かける言葉が、見つからなかったのだ。

 この奔放な王は、誰よりも速く駆ける男だった。なにものにも縛られず、思うがままに自由を謳歌する男だった。そしてきっと、そんな自分自身を何よりも尊び愛している男だった。

 そんな男が、その自由の象徴である両脚を失ってしまう。

 男は一人の人間である前に王だ。どんなに自由を愛そうとも、王である時点で自由などない。男が謳歌していた自由は仮初めの自由でしかなく、それを男自身も判っていただろう。だから、これは悲しむべきことではない。当然の帰結であり、悲しむ権利などない。

 だが、それでも、銀の王は男のことを悼まずにはいられなかった。それが王たるこの男に対する裏切りだと知っていて、それでもそれを止めることができなかった。

 今まで銀の王は、王に相応しい人物であろうと日々努め、王政に手を抜いたことは一度もないと自負している。同時に、何もかもに真摯でない黒の王を蔑んだことすらあった。だが、蓋を開けてみればどうだろうか。きっと目の前のこの男は、自分よりももっとずっと、王という生き物を全うしている。そのことがどうしようもなく悔しく、悲しく、そして誇らしかった。

 銀の王が即位して二十年余り。彼はこのとき初めて、王であるということがこれほどまでに残酷なことなのだと知ったのだ。

 ただ黙ったまま何も言わない銀の王に、黒の王は数度瞬きをしたあと、ふっと笑った。そしてそのまま、ぐいっと勢いをつけて身体を起こす。

 ごちんっ。

 そこそこ痛そうな音を立てて、黒の王の額が銀の王の額に直撃した。勢いのまま引っ繰り返って額を押さえた銀の王に、黒の王が腹を抱える。

「わはははは! 間抜け面め! お前やっぱ芸人の方が向いてるわ!」

「だ、誰が芸人か! 無礼もほどほどにせよ!」

 思わず叫んだ銀の王に、黒の王が笑顔のまま頷いた。

「そーそー、お前はそうやってプリプリ怒ってる方が調子出るわ。……だから、あんま気にすんな。俺はいつだって、俺が思うまま、好き勝手やってるだけだよ」

 その言葉に、銀の王が口を噤む。そんな彼を見た黒の王は、やはり楽し気な笑みを浮かべて言った。

「それに、次世代の成長を見守るってのも悪くねぇもんだ。お前はまだまだ現役貫きそうだし、うちのガキが王になったときはよろしく頼むぜ? 黒の王になるなら会議のすっぽかしと遅刻は欠かせねぇって、しっかり叩き込んどくからよ」

 そう言ってウィンクをした黒の王に、銀の王が反射的に叫ぶ。

「そういう余計なことを指南するのは止めよ虚けが!」

 そんな銀の王を見て、黒の王は再び大きな笑い声を上げた。

 自由奔放で怠惰な男は、その性質の割によく気が回るのだ。自分よりも長く玉座を守り続けて来た男のそういうところがまた気にくわない、と銀の王は思った。そして同時に、憐れみも裏切りも全てを許容してしまうその気質に、心からの尊敬の念を抱く。

 楽しそうに部屋に響く黒の王の笑い声を聞きながら、銀の王は、ようやく頬の筋肉が僅かに緩むのを感じた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かなしい蝶と煌炎の獅子 ~おまけ3~ 倉橋玲 @ros_kyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ