そらとぶ とかげ
柔らかな下草が生い茂った草原に、優しい風が吹いていた。
「ティアくん? ティアくーん?」
草に半ば埋もれるようにしていたトカゲは、名前を呼ばれてきょろきょろと周囲を見回した。声はトカゲに名前を付けた飼い主兼護衛対象のもので、丁度背後を振り返ると、そこに彼が立っていた。
「あ、ティアくん、見つけた」
少年がしゃがみ込み、トカゲに手を差し伸べてくる。その上にひょいっと乗っかると、少年は小さな赤い頭を指先でちょいちょいと撫でた。少年の指先は、優しく慎重に動く。顎の下も柔らかく擦られて、トカゲは掌の上でころりと寝転がった。
暫くそうして戯れていた一人と一匹だったが、撫でるのをやめた少年が立ち上がったのを合図に、トカゲは少年の腕を伝って肩に上った。そして、定位置である少年のマフラーの中に潜ってから、布の隙間を縫ってぷはっと顔を出す。
「風が気持ちいいねぇ、ティアくん」
少年の言葉に、トカゲはこくこくと頷いた。それを受けて、少年が少し嬉しそうにしたものだから、トカゲもなんだかちょっと嬉しくなる。
少年はトカゲの大好きな若様の大切な存在である。そんな人を喜ばせられるのは、とても良いことだ。それに、そうでなくともトカゲは少年のことが結構好きだ。最初はただの護衛対象だったが、一緒に過ごすうちにどんどん少年のことが好きになった。だから、少年が喜んでくれると、トカゲも嬉しい。
でも、ここに若様もいたら、もっと嬉しいのになぁ。
トカゲがそんなことを考えると、その思考を汲み取ったかのように、背後から突然声がした。
「キョウヤ」
「……貴方」
少年が振り返ると、赤銅色の髪を風に揺らす男が立っている。男はいつものように優しく微笑んでいた。
「気持ちの良い場所だな」
「うん、そうだね」
ゆるりと周囲を見渡した男に、少年が静かに応じる。若様も少年も穏やかで楽しそうで、トカゲの心はぽんぽんと弾むようだった。
少しの間、そうやって二人と一匹が風に吹かれていると、不意に男が、ああそうだ、と声を上げた。
「キョウヤ、ここも良いが、あちらの方に行かないか」
男が指差した方を見て、少年が首を傾げる。
「あっち? 何かあったの?」
「ああ。向こうの方に森があるのだが、その中にある泉が蝶の群生地なのだ」
「蝶の……」
「沢山の蝶が湖上で舞っている姿がとても美しくてな。きっとお前も気に入るだろう」
男の言葉に、少年がこくりと頷いた。それを見て、では早速向かおうか、と笑みを深めた男に、でも、と少年が首を傾げる。
「遠いんでしょう? 帰り、遅くなっちゃわないかな」
「ああ、なに、ティアに乗っていけばすぐだろうさ。なぁ、ティア?」
男の笑顔を向けられて、トカゲは少年の肩に上ると、むんと自信たっぷりに胸を張った。もちろん任せて、と全身で主張する姿を横目に見て、少年が小さく笑う。
「確かに、そうだね。……お願いしてもいいかな、ティアくん」
細い指先に撫でられ、トカゲはこくこく頷いてから、少年の頬に軽く口先を押し当てた。
それからぴょんっと草の上に降り立ったトカゲに、少年が距離を置くようにそっと離れる。逆に男の方はトカゲに近づいていき、膝を折ってトカゲの前に手を伸ばした。
「ほら、ティア」
促されるままに、小さな口がかぱりと開けられる。そこに男が、炎を放り込んだ。
あぐり。大口で呑みこんだ炎がトカゲの中を駆け巡る。この世で一番美味しいご飯にトカゲはうっとりと目を細め、そんな小さな体駆を、身の内から溢れ出るように噴き上げた炎が包みこんだ。
炎は勢いが良いのに、不思議と草土を焼くことなく、ただ轟々と渦巻くばかり。やがてそれが、ぶわりと膨らんで掻き消えると、そこには何倍にも大きい姿になったトカゲがどっしりと座していた。
その大きさと言ったら圧巻で、一般的な騎獣を軽く凌ぐサイズである。この巨体なら、大人が十人は乗れそうだ。
炎が落ち着いたのを見計らって、大きくなったトカゲに近づいた少年は、陽光を弾くなめらかな赤い鱗をそっと撫でた。
「凄いねぇ、ティアくん。これなら本当にすぐだね」
「よし、では向かうとしよう。頼んだぞ、ティア」
トカゲは少年くらいなら丸呑みにできそうな口から、ぼっと火を噴いて答えた。べしりべしりと尻尾が地面を叩く。
少年と男が背に乗ったのを確認してから、トカゲがどたんどたんと走り出した。そうやって十分に助走をしたトカゲは、えいやっと地を蹴った。前足が浮き、後ろ足も浮いて、尻尾までもが地を離れ、風を切ってトカゲは空を飛ぶ。
地を這うことを不満に思ったことはないが、それはそれとして、空を飛ぶことはとても楽しかった。背の上で男が示す先を目指して、水を泳ぐ魚のように、ひゅんひゅんと空を進んでいく。
やがて、向かう先に深い森が見えた。きっとあそこが目的地なのだろう。
ふふ、と背中で少年の笑う声が聞こえる。
「楽しいね、ティアくん」
――はっ!
がばりとトカゲが上体を起こすと、静かな空間に鳥の声が聞こえた。カーテンの隙問から差し込む光は明るい。もう朝だった。
きょろきょろと周囲を見回す。黄の国の王宮にある客室の、やわらかなベッドの上。すぐ近くでは少年がぐっすりと眠っている。
……夢だったのだ。
トカゲはあんな草原を知らないし、少年と共に森に行ったこともない。大好きな若様は、今色んな事情があって姿を隠している。確かにトカゲは力のある
いくら若様の炎であるとはいえ、食べたからと言って巨大化はしないし、空を飛ぶことだってできない。
トカゲはこてりこてりと首を傾げた。どうしてあのような夢を見たのだろうか。トカゲは現状に満足しているから、別に大きな身体が欲しいと考えたことはない。空を飛ぶのは楽しそうだと思ったことはあったが、だからといって翼が欲しいかというと、別にそこまでして飛びたい訳でもない。
うーん、と暫く考えて、ふと思い浮かぶことがひとつあった。
昨日、少年は王宮の書庫で図鑑を見ていたのだ。世界の色んな生物を載せた図鑑で、刺青の参考にならないかと、図鑑の絵を描き写していた。図鑑には幻獣の類も掲載されており、その中に大型の空を飛ぶ幻獣のページがあった。
『……凄い大きさだね、ティアくん』
少年は体長の記述部分を指差して言った。
『この幻獣、とっても高いところに生息しているから、滅多に見ることができないんだって。実際に目で見てみたらどんな風なんだろうね。あ、なんとか親しくなって、物や人の輸送を手伝って貰えるようにできないだろうかっていう話もあるみたい。そもそも見つけるのが大変だから難しそうだけど。……でも、ちょっと乗ってみたいかも』
ね、ティアくん。そう微笑んだ顔まで思い出したところで、トカゲはすぐそこで寝ている少年に意識を向けた。
近づいてみても少年はごく静かに寝息を立てていたが、じっとその顔を覗き込んでいると、不意にその目蓋がふるりと震えた。
「……てぃあ、くん?」
寝起きのまだぼんやりとした声で、少年が呼ぶ。なぁに、と返事をする代わりにぱたぱたと尻尾を振った。
少年はまだどこか呆けた少し虚ろな目をしていたが、トカゲを認識すると、微笑みを顔に上らせてみせた。
「ふ、ふふ……」
珍しく朝から機嫌が良さそうな少年にトカゲが首を傾げると、少年は小さく笑いながら、あのね、と語りだす。
「ゆめを……見たんだよ」
夢を。ぱちりとトカゲは瞬いた。
「どこか、どこかに……いて、天気がよくって……風が、きもちよかったなあ。僕は何かに寝ころんで、……日を浴びているんだ。それで、ゆっくり運ばれているんだよ」
ゆっくりとした瞬きは、少年に残る眠気を表しているようだった。まだ、夢見心地なのかもしれない。トカゲは傍に寄って、少年の口元をぺちぺちとする。
それにくすぐったそうにしながら、少年が話を続ける。
「僕がねころんでいるものが、動いてるんだ。でもぼくは、ゆめの中でそれを……とうぜんだと思ってて。あったかくって、赤くって……」
言葉を切った少年が、溢れ出るといった様子でころころ笑った。
「ティアくん、なんだよ。ティアくんがね、とっても大きいんだ。僕はそれがふつうだと思ってたから、たぶん、ゆめのティアくんは大きいのがふつうで……ほんとに大きいんだよ。この王宮の、半分くらいはあったんじゃないかなあ……。その背中に乗って……きもちいいねティアくんって、言ったら、いつもみたいに、ぶわって、大きな火を、噴いてて……」
楽しそうに言葉を重ねる少年を前に、トカゲはふるふると震えていた。少年の言葉は既にトカゲの耳には届いていなかった。
ショックだ。とてもとても、大きなショックだった。トカゲの棲んでいた火山よりうず高く、青の国の近海にある海溝よりも深いショックだ。
トカゲは自分に自信がある。名のある山の主であったし、若様の大切な人の護衛を直々に頼まれたほどなのだ。秘めた力はそんじょそこらの相手には引けを取らない。
だが、だが。身体の大きさは、
しかし……しかし!
少年は――――大きいトカゲの方が、いいのかもしれない……!
どよん、と頭上に暗雲を浮かべ、トカゲはしょぼくれた。しょげしょげと小さな頭が下がる。
ああ、きょうや……! きょうやは、おっきいほうがすき……!
トカゲはそのまま力なくシーツの上にぺそりと潰れた。夢の話を続けていた少年が不思議そうにトカゲを見る。そして、何故だかぺちゃりと伏せているトカゲに手を伸ばすと、そっと頭を撫でた。
「どうしたの、ティアくん?」
気力がぺちゃんこになってしまっているけれど、辛うじて尻尾を振って応える。なでなでと優しく頭から背まで撫でられるのは気持ちが良いのに、少年の気持ちを知ってしまった今、素直にそれを甘受することができない。
いつもと様子の違うトカゲを、少年が訝しげに見つめる。しかし生憎、少年の未だぽんやりした頭では、トカゲがいつもと違うことはなんとなく判っても、実際どんな心境なのかを察することは難しい。
だから少年は疑問符を浮かべつつ、トカゲを撫でながら話を続けた。
「おっきいティアくんと、どこまでも行くの、たのしかったなぁ……」
トカゲはシーツに鼻先を埋めた。頭の上に重石が乗っているようだった。ああ、きょうや……。
そんなトカゲの心境を置き去りに、ぽやぽやした口調で少年は、でもねぇと笑った。
「ぼく、やっぱり……いつもの、いまのティアくんがいちばんだなあ」
トカゲのつぶらな瞳が少年を見た。少年はとても柔らかく笑っていた。
「小さいティアくんだから、ずっといっしょにいられるんだし……、いつも、いっしょでいられるんだもんね。……ありがとう、ティアくん。きてくれたの、ティアくんで、ほんとうに良かったな……」
言葉尻に半ば被るように、トカゲは少年の手の下からぴょんと飛び出ると、少年の顔にくっついた。すりすりと頬に身体を摺り寄せ、たくさんのキスを少年に贈る。
突然の行動に驚いた少年は目を丸くしたが、すぐに笑額に戻ると、すりすり懐くトカゲを再び無で始めた。
あまえたさんだね、どうしたの、と何も判っていない声が、今は福音のように聞こえた。
ああ、きょうや! きょうや!!
すき!!
トカゲの全身で訴える愛に、少年は少し不思議そうに、けれどとても嬉しそうに応える。
そのままトカゲと少年は、朝食を運んできた使用人が部屋を訪れるまで、ずっとベッドの上で仲良くじゃれあっていた。
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