各国壁ドン事情 銀の国編

 銀の国の首都、エルデリートの城下街にある市場。常より多くの商人や客によって賑わうことで有名な場所だが、今日はその賑わいに加え、僅かな緊張が張り詰めていた。

 それもその筈。今日は、銀の王エルズディ・レード・タリエンデが市井の視察をする日であり、今まさに何人かの臣下を引き連れた王が、城下の街を回っている真っ最中なのである。

 普段ならこんなにも近くで拝謁することなどない王の姿に、国民たちは揃って頭を下げ、王が通り過ぎていくまでその敬意を表する。本来ならば、王の姿が見えなくなるまで頭を垂れるべきなのだが、それは王によって禁止されている。

 民の暮らしぶりを視察するために来ているのだから、礼など最低限に留め、普段の様子を見せてくれれば良い、ということらしい。

 そんな訳で、王が近づいた場所限定で、人の群れが二つに割れて静寂が訪れ、王が通り過ぎれば元の活発な市場の姿に戻っていく、という、傍から見るとかなり怪しい現象が起きている。これはこれで普段の市場とは言い難い光景であったが、王の命を忠実に守ろうとした民の努力の形である。それを理解している王は、自身が示唆したものとは少しズレた方向の努力をしている国民に対し、それ以上の指示をすることはなかった。これもまたいつものことであると判じた王は、奇妙な光景に特別気を払うことはなく、時折店の店主に話しかけたり店先を覗いたりしながら、ゆっくり歩を進めていった。

 そんな時だった。

「おうへーかさま!」

 ぱたぱたという足音と共に、元気一杯の幼い声が飛び出してきた。

 すぐ近くで止まった声の主に王が目を向ければ、そこにいたのはまだ幼い少年だった。精一杯に首を逸らした少年の大きな目が、王を見上げている。

 王がすっと周囲に目を配らせると、急な事態に王たちを窺っている人ごみの中にひとり、顔面蒼白のまま片手を挙げ、けれどあまりのことに動くことすらできずに固まっている女性がいた。恐らくは、彼女が少年の母なのだろう。次いで周囲に控えている臣下にちらりと目をやれば、臣下は皆、子供相手にどう対処すべきか迷っているようだった。

 臣下たちが迷いを見せたのは僅かな時間だったが、己のすべき行動を定めた臣下が動き始める前に、少年に視線を戻した王が口を開く。

「私に何用か?」

 子供にそう問いかけた王に、臣下は戸惑い、国民は戦々恐々とした様子だったが、当事者である少年はぱぁっと顔を明るくした。どうやら、王から声を掛けられたことが嬉しかったようだ。

「おうへーかさま! こんにちは!」

 王の問いには答えず、少年は大きな声で挨拶をして頭を下げた。そんな子供に、王は少しばかり目を細める。

「挨拶ができるのはいことだ。して、何用か、と問うている」

「なによう……?」

 言葉の意味が判らないようで首を傾げる少年に、王が言葉を重ねる。

「何か用事があって、話しかけてきたのであろう?」

「あ! はい! おうへーかさまに、かべどんしてほしくて、おねがいしにきました!」

 少年がぴっと片手を挙げてそう告げると同時に、周囲の空気が凍りついた。

 そもそも銀の国は礼節正しいお国柄だ。民がそうであれば、象徴である王などその筆頭である。黒の王あたりから言わせれば堅物、銀の民から言わせれば公明正大で他者にも自身にも厳しいこの王に、いきなり壁ドンを所望するなど、あまりにも畏れ多すぎる行為である。

 ところが、天真爛漫な小さなお子様は、幼いが故にまだその畏れ多さを理解していないようだ。

「おかあさんが、かべどんは、とってもすてきだから、すてきなひとにしてもらうのが、いいって、ゆってましたっ! だから、おうへーかさまに、してほしいなって、おもいましたっ!」

 周囲の空気もなんのその、無邪気な少年は続けてそんなことを言った。お陰さまで少年の母親は今にも倒れ込みそうになっていたが、少年は勿論気づかない。

 そんな中、王に付き従っていた騎士の一人が、そっと少年に近寄ろうとした。周囲や少年の母親を見かねて、先んじて子供を諌めようと思ったのである。それはそれとして肝が潰れるような思いを(母親が)するかもしれないが、陛下から直接お叱りの言葉を頂戴するよりはマシだろう、と判断したのだ。

 ところがそんな騎士を、王が片手で制した。

「陛下」

い、イシュティニア。下がれ」

 忠実な臣下は、王の言葉を受けて大人しく引き下がった。顔面を蒼白にしている母親には申し訳ないが、陛下の命を退けてまで少年を助けるような義理もなければ、義務もないのだ。

 臣下が口をつぐんだのを確認した王が、少年を見下ろして口を開く。

いか、お主。国王を相手に、そのような要望を不躾にするものではない」

「ぶしつけ……」

「国王に対して、失礼だと言っている」

 王の顔をじっと見つめた少年は、少ししてから言葉を飲み込んだようだった。

「ごめんなさい!」

 最初の挨拶と同じくらい大きな声でそう言って頭を下げた少年を、周囲は固唾を呑んで見守っている。見ているだけで心臓が痛くなりそうな光景だったが、視線を外すのもなんだか怖いような気がしたのだろう。

 目を細めて少年のつむじを見ている王に、ああ、どんな厳しいお叱りを受けてしまうのだろう、と思った周囲だったが、そんな心配に反し、王が発したのは、厳かであっても険しい響きは感じられない声だった。

「素直に謝れるのは美徳だな」

 その言葉に、少年がちょっこりと顔を上げた。窺うように王を見上げた少年は、どうやら王が怒っている訳ではないと察して、きちんと身体を起こす。と、そこでようやく、我に返った母親が子供の元へと跳び出してきた。

「えっ、エルズディ王陛下! 大変申し訳ございません!」

 悲鳴じみた声でそう言った母親は、真っ青な顔のまま、少年の頭を押さえつけるようにして下げさせた。そして、ほとんど同時に自分も深く頭を下げる。

 そんな母親に対し、王は面を上げよと静かに命じた。

「民の言葉を聞くのも、国王の務めである」

「し、しかし……」

「構わぬ。子供と言うものは、何事にも好奇心旺盛に首を突っ込むものだ」

 そう言った王は、顔を上げた少年の大きな目ときっちり視線を合わせ、見つめながら、ゆっくり言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「しかし、お主も栄えあるエルキディタータリエンデ王国の民であるのならば、それに恥じぬ思慮深い行動ができるよう、良く学びなさい」

 はらはらとした母親や周囲の視線を一身に浴びながら、少年は数回瞬きを繰り返した。

「はい! たくさん、おべんきょう、します!」

 ぴっと背筋を正し、一際大きな声で少年がそう宣言すると、王は静かに頷いた。

い子だな」

 王の言葉に、褒められたのだと自覚した少年が、ふくふくとした頬を喜びに赤く染めた。

「ありがとう、ございます!」

 そんな二人のやり取りに、周囲には安堵の空気が流れ、どことなく張り詰めていたものが、ゆるりと解ける。

 あからさまに顔色が良くなった母親は、王に深く礼を述べてから、少年の手を引いて下がろうとした。如何に許されたとはいえ、放っておいたら我が子が再びとんでもないことをしでかすのではないかと、気が気ではなかったのだ。

 しかし、そんな彼女を引きとめるように、王が再び少年と目を合わせる。まだ何かあるのだろうか、と身を固くした母親をよそに、王は少年に向かって問いを投げかけた。

「して、お主。壁ドン、とはどのようなものなのだ?」

「おうへーかさま、かべどん、しらないですか?」

「知らぬ。故に説明せよと言っておる」

 静かに言う王に、少年は丸くくりくりした目を、更に丸くした。

「かべどん、ゆーめいなのに、しらないんですねっ! おうへーかさまも、しらないこと、あるんですねっ!」

 少年の言葉に、母親の顔からはさっと血の気が引き、周囲の人々に再び緊張が走る。なんて無礼なことをと慌てて頭を下げようとした母親は、しかし王に片手で制されてしまった。そして王は、無邪気に驚いている子供に向かって少しだけ目を細めた。

「王とて、知らぬことは多い。万能ではないのだからな」

 だから壁ドンも知らぬ、と続けた王に、少年はほあーっと呆けた声を出した。だが、すぐにきりっとした顔になり、身振り手振りを交えて壁ドンの説明をし始める。幼いなりに、与えられた使命をまっとうしようと思ったのだろう。

「かべどんは! こうやって! こうして! かべに、どーんってするんです!」

 少年なりに、必死に説明したのは判る。だが、あまりにもふわっとしたその説明では、誰にも伝わらないだろう。事実、王はその表情こそ変化がないが、ちらりと臣下を見やった目には、全く判らぬ、という意が存分に籠められていた。

「説明しようという気概はい。努力も認めよう。だが、お主はもっと言葉を学んだ方がいな」

 言われた少年は、偉大なる王からのエールだと受け取り、ぴしっと背筋を正した。

「はい! ことば、おべんきょうします!」

い子だ」

 再び褒められた少年が頬を緩ませている間に、先程イシュティニアと呼ばれた大柄な騎士が、静かに王の横に出た。

「陛下。僭越ながら、私がご説明申し上げてもよろしいでしょうか」

いだろう」

「ありがとうございます」

 一礼し、騎士は簡潔に壁ドンの解説をした。無言でそれを聞いていた王は、それが終わるとその視線を母親へと移した。

「お主」

「は、はいっ!」

 やや引っ繰り返った声で返事をした母親に、王が言葉を続ける。

「その子を抱き上げよ」

 言われた母親が、すぐさま子供を抱き上げる。

「では、そのままそちらへ向かうがい」

 そう言って王が指差したのは、近くの建物の壁だった。何がなんだか判らないまま向かう母親の後ろを、王がゆっくりとついてくる。

 背後からついてくる王に母親は戦々恐々としていたが、一方の少年は状況がよく判っていないのか、のほほんと母親に抱えられていた。そんな親子と王を見つめる周囲は、何が起きるのか飲み込めていないようで、固唾を呑んでいる。

 震える脚で母親が壁の前に到達して振り返ったところで、王が親子に向かってつかつかと歩み寄った。しかし視線の先にいるのは母親ではなく、その腕の中の少年だ。

 そのまま母親の横に手を突いた王がぐっと身体を近づけ、少年を見下ろした。はわ……と見上げてくる子供の目を見つめること、二呼吸分。すっと身体を離した王が、少年に言う。

「これで満足か」

 王の問いに、暫く呆けた顔をしていた少年は、ぱっと顔を明るくして頷いた。

「はいっ! おうへーかさま! ありがとうございましたっ!」

 笑顔の少年に王はひとつ頷くと、では良く励むように、と言って少年の頭を撫で、騎士たちの元へ戻る。そして何事もなかったかのように、再び通りを歩み出した。

 王の姿が遠ざかり、喧騒が少しずつ戻っていく中、母親が少年を抱えたままへなへなと座り込む。魂が半ば抜けかけている様子の母に、少年はただ、すごかったねぇ、と楽しそうに笑った。

「おうへーかさま、かっこよかったね! あたま、なでてくれたよ、おかあさん! ぼく、おべんきょう、もっとたくさんがんばって、おうへーかさまのやくにたちたいっ!」

 無邪気にはしゃいでそういった少年だったが、そんな我が子に応じるだけの気力が、今の母親にはない。

 そんな二人をずっと見守っていた野次馬のどこかで、誰かが呟く。

「……やっぱり、エルズディ王陛下は素晴らしいお方でいらっしゃるなぁ」

 その言葉に、周囲の人間がうんうんと頷いたことは言うまでもなく。

 

 ちなみに次回の視察の際、今回の噂を聞きつけた国民(主に怖い者知らずの子供たち)が、こぞって銀の王に壁ドンを求めてくるのだが、一瞬物凄く険しい顔をした銀の王は、しかし一人にやってしまったのならば他にも平等にと、一人一人に壁ドンをして回る羽目になるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る