各国壁ドン事情 金の国編

 ギルディスティアフォンガルド王国の幼き王は、遅い昼食を求めてひとり厨房へと足を進めていた。

 普段は大体同じ時間に昼食を取っているのだが、今日は所謂休養日で、朝から自身の魔術研究室に篭っていたため、ふと気づけば昼食を食いっぱぐれてしまっていたのだ。

 王と言う存在は得てして多忙ではあるものの、自由時間が全くないわけではない。公務の合間に趣味に手を出す時間もあるし、国の情勢が落ち着いているときならば、丸一日休みを取ることもできる。今の金の王は、まさにその権利を行使している真っ最中なのだ。

 そも、休息とは上の者こそしっかり取るべきだ、と王は考える。そうするのが難しい場合もあることは承知しているが、上の者がひっきりなしに働いていては、下の者まで休む時間を奪われてしまうのだ。

 王は民を導くものだ。故に率先して働くべきであるが、働くことしかできない王は無能である、というのが王の持論だ。余暇も作れぬような有様は、単なる仕事の配分ミスである。王が一人で全てをこなさなくて良いように、臣下たちのサポートがあるのだ。ならば、あらゆる全てを己でこなそうとするなど、それは最早臣下に対する冒涜だろう。

 そんなわけで、己の持論にのっとって久方ぶりに丸一日の休暇を貰った王は、趣味も兼ねた研究に勤しんでいた。“創世”の二つ名を戴く第一位の冠位錬金魔術師である王は、魔術のこととなると寝食すら忘れて没頭してしまうことが多い。無論、それで本来の職務をおろそかにすることはないが、逆を言えば職務さえなければ一日中魔術の研究に終始することさえある。王自身も、休暇の際は可能な限り魔術の研究に集中したいからと、緊急時以外に誰かが研究室へ出入りすることを禁じている。その結果、昼時を過ぎ、太陽が随分低い位置に傾くまで、王は己の空腹に気づくことができなかった。

 空腹に気づいたときには既に夕食の方が近いような時間だったので、いっそ夕食まで待っても良かったのだが、一度認識してしまった空腹を抱えたままではどうにも集中することができず、こうして食料を求めて研究室を抜け出してきたのである。

 幼子のようで恥ずかしい、などと考えながら歩いていた幼王は、ふと前方に見えた姿に二、三度瞬きをしたあと、顔を明るくして足を速めた。

「こんにちは」

「おや、ギルヴィス王陛下。御機嫌よう」

「はい、御機嫌よう」

 足を止めて振り返った男は、官吏の一人だった。金の王がまだ王子であった頃から少しばかり交流があり、比較的親しい仲の相手である。

「お供も連れずに珍しいですね。本日はお一人でいらっしゃるのですか?」

「そうなんです。……実は、これから昼食を頂こうかと……」

 こそりと小さな声でそう言った王に、官吏が首を傾げる。

「このようなお時間に昼食ですか? ……もしや、また研究室に篭っていらっしゃったのですね?」

 図星をつかれた王が、笑いながら僅かばかり目を逸らす。そんな王の反応を見た官吏は、口に出さないまでも、仕方ないなぁと言うような表情を覗かせた。王がもっと幼く、まだ王でなかった頃、寝食忘れて研究に没頭した結果、空腹にへたって倒れてしまったことがあるのだが、そのとき助けてくれたのが、この官吏なのだ。あの頃と変わらずまだまだ子供だと思われたかもしれない、と思った王は、気恥ずかしさにそっと頬を赤らめた。

 なんとか話を逸らせないだろうかと考えて視線を巡らせていた王は、官吏が抱えている書類に紛れている一冊の本に目を留めた。

「……あ、その本は」

「はい? ああ、これでしょうか」

 す、と官吏が差し出した本の表紙を見て、王は目を輝かせた。

「これは、今大陸中で話題になっている本ですね!」

「おや、ご存知でしたか」

「勿論です」

 金の国の民は新しいもの好きである。そんな民を束ねる王家はその筆頭と言っても過言ではなく、『王家がまず率先せよ』という家訓があるほど、新しいものや流行りのものに目がないのだ。王も漏れなくそのクチであり、今大陸で大流行しているこの本も、しっかり購入済みである。

「貸して欲しいという同僚がおりまして、書類を届けるついでに取り敢えず一巻だけ貸しておこうと思ったのです」

「なるほど。それは素敵ですね」

「はい、中々面白い物語なので、語れる友人が増えるのは嬉しい限りです。私としましては、一巻だと特に終わりの方の、」

「ああっ、待ってください!」

 慌てたような声を上げた王に、官吏は目を丸くして言葉を切った。それにほっと胸を撫で下ろした王は、少し申し訳なさそうな顔で官吏を見上げながら、実は、と口を開く。

「私もその本は購入したのですが、まだ読めていないのです。なので、内容については控えて頂けませんか?」

 多忙な王は何かと忙しく、本を読む時間を作れずにいたのだ。今日も本を読むか研究をするかで迷った末、どうしても試しておきたい術式があったため、結局研究を取ってしまった。

 という訳で内容に関する言及は避けて欲しい、という王のお願いに、官吏は眉を下げた。

「それは申し訳ございません。危うくネタバレをしてしまうところでした」

「いいえ、どうぞお気になさらず。もしも私が読破した暁には、是非お話をお聞かせくださいね」

「はい、勿論でございます。……しかし陛下、内容については、本当にまったくご存知ないのですか?」

 官吏の問いに、王は少し考えてから口を開いた。

「あらすじ程度は知っておりますよ。ああ、あとは、“壁ドン”、でしたか」

「おや、そちらはご存知で」

「流石に、どうしても耳に入ってしまいまして。ときめきがどうとか、女性に特に人気だとか」

 自分で読むまではできる限り情報を遮断しようと努めた王だったが、大陸中で流行している本の内容を完全に知らぬままでいる、というのは難しい。本の中に出てくるらしい壁ドンとやらは特に巷で流行っているようで、うっすらと耳に入ってきてしまったのだ。

 とはいえやはり、ぼんやりとした情報しか知らない。それを伝えれば、官吏は少しばかり考えるような素振りを見せた後、ふふ、と口の端に笑みを上らせてみせた。

「では陛下、是非私に壁ドンをしてみては頂けませんか?」

「え、私が、ですか?」

「はい」

 笑顔の官吏に、金の王はぱちぱちと目を瞬かせ、それから苦笑した。

「しかし、先程も言ったとおり、私は壁ドンがどういうものなのか、正確には知らないのです」

「ですが、一応ご存知ではいらっしゃる」

「本当に一応です。こう……壁を両手で、どん、とするのでしょう?」

 見えない壁を両手で押すような仕草をした王に、官吏は笑みを緩ませて、大体そうです、だから大丈夫ですよ、と笑った。

 そうは言われても、と王は困ってしまう。こんな曖昧な知識では適当なことしかできないに決まっているのだが、官吏はそれでも良いと言う。王としては、どういうものかを知った上で正しい壁ドンを披露したいところだが、官吏はどうにも引き下がらず、期待した目で王を見下ろしてくるのだ。

 そんな官吏に困ったような表情を浮かべていた王は、少し悩み、それからひとつ頷いて、廊下の壁に近づいた。壁ドンがどういうものなのかは知らないが、民に請われたからにはやらない訳にはいくまい。

 そんな気概で壁に向かった王は、両手を小さく振り上げた。

「えいっ」

 ぺちん、と両手で壁を叩く。金の王の小さな手と力では、当然大した音はしない。ぺちんぺちんと何度か叩いて、これでは壁ドンというよりも壁ぺちんではないだろうか、と思った王は、官吏の反応を確かめるために背後を振り返った。

 するとそこには、

「……っ」

 口元に手を当て、明らかに笑うのを耐えている官吏が、抑えきれない笑みで僅かに歪む目で以って、王を見ているではないか。

 王の頬に、ふわりと血の色が上った。

「わっ、笑わないで下さいっ! だから知らないのだと言ったではありませんか!」

 酷いです、と頬を膨ませる王に、官吏はなんとか弁明の言葉を紡ごうとするのだが、どうにも口を開くと笑い声が出てしまいそうになるらしく、なんだかもごもごとしている。それでも官吏は、どうにかこうにか言葉を吐き出した。

「可笑しい、という、訳では、なく、陛下が、とても、お可愛、らしくて」

 結局笑い交じりに吐かれたそれは、そこそこ無礼な発言だったが、そこはそれ、親しさが故のものだ。それを判っているため、王も目くじらを立てることはない。だが、それはそれとして、可愛らしいと言われるのは少々複雑である。幼王の目指すところは、可愛らしさではなく頼りがいなのだ。

 未だに笑いを堪えようとしている様子の官吏に対し、王は精一杯怖い顔をして言った。

「では、お手本を見せてください」

「……お手本、ですか?」

「そうです、お手本です。私にちゃんとした壁ドンを教授してください」

 もし今後壁ドンをする機会があったとき、またこのようなことでは困るのだ。勿論例の本を読んで壁ドンについて学ぼうとは思っているが、実際に壁ドンを見られるならその方が確実だ、と王は考えたらしい。

 そんな王の要請に、官吏は困ったように笑った。

「申し訳ございません、ギルヴィス王陛下。壁ドンをするにしても相手が必要なので、ここでは……」

「ああ、そうだったのですね。しかし心配は無用です。私がいるでしょう?」

 王の言葉に、官吏が思わず目を剥く。

「……私が、陛下に、壁ドンをするのですか……?」

「ええ。私は教えて頂く立場なのですし、どうぞ良いようにお使い下さい」

「い、いえ、しかしその、流石に陛下を相手に、というのは、少々礼を失しているかと……」

 なんとか辞退しようとする官吏に、しかし王は食い下がる。

「良いのです。私からお願いしていることなのですから、お気になさらず」

 そう言った王が、よろしくお願いしますね、と微笑んだ。その笑顔に、官吏は思わず言葉を詰まらせる。こうも愛らしく信頼の篭った笑顔を向けられると、その期待を裏切る訳にはいかないような気持ちになってしまうのだ。

 困り顔で唸った官吏は、少し逡巡するように目を彷徨わせてから、ようやく腹を括った。

「では、その、……失礼、致しまして……」

「はい、どうぞ」

 壁際に立つ王の元に、官吏が近寄る。大人の官吏と子供の王ではかなりの身長差があるため、官吏はその場で片膝をついた。緊張した面持ちの官吏に向かい、王はまた、にこりと微笑んだ。それを受けた官吏が再びうっと歯を食い縛り、何だろうこの犯罪臭、と内心で呟く。

 そのまま動きを止めて黙している官吏の様子に、王はきょとりと首を傾げた。

「どうかなさいましたか?」

「あっ、いえ、……大丈夫です。…………そ、それではっ」

 キッと覚悟を決めた顔で、官吏は壁ドンをすべく王へ両手を伸ばした。が、そのとき――、

 

「何をしている?」


 唐突に聞こえてきた冷え冷えとした声に、王と官吏の反応は正反対だった。

 官吏はヒッと悲鳴を零して固まり、逆に王は声の主を見て、ぱっと目を輝かせた。

「ヴァーリア!」

「ヴァッ、……ヴァー、リア、師団長……」

 つかつかと近寄ってくる男、カリオス・ティグ・ヴァーリア師団長は、王を壁際に追い詰めている(ように見える)官吏をじっと見下ろすと、同じ言葉を繰り返した。

「何を、している?」

 底冷えのするような冷たい赤の瞳が、官吏をねめつける。瞬間、官吏は弾かれるようにして立ち上がった。

「いっ、いえっ私は何もっ! 何一つ疚しいことなどしておりません! それではギルヴィス王陛下! これにて失礼致します!」

 そう叫んでお手本のような最敬礼をした後、あっという間に走り去ってしまった官吏に、王はぽかんとした顔をした。それからヴァーリア師団長を見上げ、こてりと首を傾げる。

「ヴァーリア?」

「慌ただしい官吏ですね。何か急ぎの用でも思い出したのでしょう。陛下がお気になさることではないかと」

 先程までの冷え切った目はどこにいったのだ、と言いたくなる、それはそれは優しい微笑みだった。

「そうなのでしょうか? それならば良いのですが」

「はい。それにしてもギルヴィス王陛下、先程は一体何をなさっておいでだったのですか?」

「ああ、彼には壁ドンを教わろうとしていたのです。残念ながら、教わる前に走って行ってしまいましたが……」

 少し肩を落としてそう言った王は、官吏が去っていった廊下の先を見つめていたため、ヴァーリア師団長が再び冷え切った表情を浮かべていたことには気づかなかった。

(しかし、どうしたものでしょう……)

 そう内心で呟いた王は、小さく溜息をついた。ここまで来ると、壁ドンの正体が気になって仕方ない。本を読めば判ることだが、後でではなく今知りたいのだ。

 そこでふと、王は隣に立つ男を見上げた。王の視線に一瞬で元通りの微笑みを繕った師団長が、どうなさいましたか、と言う。それを見た王は、何も尋ねる相手はあの官吏しかいない訳ではないのだ、と思い至った。

「ヴァーリア、ひとつ聞いてもよろしいですか?」

「なんなりと」

「壁ドン、と言うものをご存知ですか?」

 突然の質問にやや面食らった師団長であったが、それを表に出すことなく、頷いて返す。

「はい。存じ上げております」

 師団長は金の国の民にしては珍しく流行に興味がないため、例の本を直接読んだことはなかったが、壁ドンがどういうものかについては、部下たちから散々聞かされたので知っている。

 肯定した師団長に、金の王はぱあっと顔を輝かせた。

「流石はヴァーリア! では、それを私にしてみせてください!」

 頼りにしているこの忠臣は、このような場でも手抜かりがないようだ、と勝手に思った王は、師団長への評価をまたひとつ上げた。そんな王の発言に対して、師団長は一瞬、口の端を引き攣らせる。

「……恐れながら、陛下。私が、陛下に、壁ドン、を?」

「はい、そう言っているのですよ」

 いつになく歯切れが悪そうな言葉に、王は不思議そうな顔をした。

 大陸中で流行っている以上、危ない行動ではないだろうし、難しい動作だということもないだろう。先程の官吏とて、用事を思い出さなければあのまま壁ドンをしてくれていた筈なのだ。それなら、この優秀な師団長にできない訳がない。

 それとも何か、自分が想像さえできないような不都合でもあるのだろうか。正直ヴァーリア師団長であれば一、二もなく快諾してくれると思っていた王は、俄かに不安になった。

「あの……」

「いえ、ギルヴィス王陛下、どうかご心配なく。不肖、カリオス・ティグ・ヴァーリア、陛下の望まれるようにさせて頂きたく存じます」

 いつにも増して畏まった物言いに、王が少しだけ師団長を案じるような表情を浮かべた。

「本当ですか? 無理をしてはなりませんよ?」

「いいえ、無理などではございません」

 いやにきっぱりと師団長が言うため、少し迷った末に、王は素直に師団長を信用することにした。

 さあ、ついに壁ドンとご対面できるのだ、と王の幼い顔に微笑みが浮かぶ。

 それでは失礼致します、という師団長の言葉を聞いて、金の王はわくわくと彼の動向を観察した。一歩、師団長は足を踏み出して、王へと近づく。その距離はいつになく近いもので、反射的に王は足を引いて下がるのだが、それを埋めるように更に近づかれ、追い詰められる形になった王の背が、とんっと壁にぶつかった。

 顔を目一杯上げて見上げる王を見つめたまま、師団長がすっと身を屈める。それと同時に、王の顔の横を掠めるようにして、彼の左手がどんっと壁を叩いた。いささか乱暴な動作で壁についた手をそのままに、師団長が肘を曲げ、秀麗な顔をぐいっと王の顔に近づける。驚くほど近くなったその距離に、王はぽかりと呆けてしまった。

 ごく至近距離から見下ろしてくる赤い瞳がすっと細められ、師団長の右手の指先が、王の白くてまろい頬をするりと撫でた。まるで瞬きを忘れたかのように、濃度の異なる赤い視線が絡み合う。

「――――と、このようなものでございますが、ご満足頂けたでしょうか」

 先に目を逸らしたのは、師団長の方だった。

 不躾すぎる近さを素早く離して距離を置き、にこりと微笑んだ師団長に対し、金の王も一拍遅れてから、にっこりと嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「ありがとうございました、ヴァーリア! 今の行動が壁ドンなのですね。女性に人気だとか、ときめきがどうなどと耳にしていましたが、確かに貴方のような素敵な男性にされたなら、世の女性方はときめいてしまうに違いありません」

「お褒めに与り光栄です、陛下」

 いっそ無邪気な様子で喜びを露わにする王に、どうやら師団長はほっとしたらしかった。穏やかさが増した師団長の微笑みに対し、心からの感謝を籠めて、金の王は笑顔で胸を張る。

「これで、先程官吏の方にされたように、民に壁ドンを乞われたとき、過不足なく対応することができます。貴方のお陰です」

 満足そうな王の発言に、ヴァーリア師団長の表情が一瞬真顔になる。

「お待ち下さい陛下。その官吏の発言について、詳しくお聞かせ頂けないでしょうか」

「え、あ、はい……?」


 数日後、とある官吏が自国の軍服を見かけるたびにびくりと震えるようになってしまったのだが、その原因を誰に問われても頑として答えることはなかったとか。

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