各国壁ドン事情 紫の国編
ここは紫のネオネグニオ王国にある、王の執務室。
女王、ベルマ・ノズ・ネオネガーの世話係の一人である彼女は、休憩中の王に、美味しい紅茶と甘いお菓子を給仕している真っ最中だった。敬愛する王と言葉を交わすことができるこの瞬間は、世話係の彼女にとって至福の時間である。
そう、この世話係は、紫の王のことが大好きだった。基本的にリアンジュナイル大陸の人間は自国の王が大好きである者が多いが(無論一部例外もある)、彼女はそれにも増してベルマ女王陛下のことが大好きだった。
紫の王は、愛想がない。物静かで無口であり、必要最低限のことしか話そうとしない。小柄な王は基本的に冷めた顔でどこかジトっとした目付きをしていて、その表情のまま訥々と端的に喋るのだ。声がはっきりしているため、ぼそぼそ喋っているという印象はないが、全体的に陰気そうに見えるクールな人だ。
そんな相手なので、彼女も世話係に任命されたときは、色々な意味で緊張した。紫の王は王であることを差し引いても、あまり外を出歩く人ではなかったので、その個人的な人となりまではほとんど知られておらず、そんな王の元で働くことに一抹の不安を抱いてしまったのだ。勿論王のことは尊敬していたし、王が良王であることは周知の事実だったが、それでも不安なものは不安なのである。
正直、ちょっと怖いな、くらいに思ったりもした彼女だったが、その印象は着任して早々に覆された。
紫の王は、可愛いものをとにかく好む、大変愛らしいお方だったのだ。
あれは、世話係がまだ着任したての頃。紅茶と共に、やたらに可愛らしいミオンのデコレーションが施されたケーキを運んだ時のことだ。なんだってこんなケーキを王陛下に提供するのだろうかと不思議に思いつつ王の執務室に入室した彼女だったが、紫の王はそのケーキを見て、幸せそうにゆるゆると口の端を緩めたのだ。
それがまず第一の衝撃だったわけだが、その後、執務室ではなく王の自室に就寝前のハーブティーを持って行ったときに、世話係は決定的なものを見た。
王の自室は紫で統一された落ち着いた部屋だったのだが、そこには大量のぬいぐるみと可愛らしい小物の数々が溢れんばかりに置かれていたのだ。ベッドの上にも同じように、可愛らしいぬいぐるみがところ狭しと並べられており、ちょうどその中心に埋もれるようにして、王が横になっていた。大きめの羽兎(緑の国の固有種だ)のぬいぐるみを抱き締めて幸せそうにしている姿に、世話係の彼女は完全に心臓を撃ち抜かれてしまった。
可愛い。
うちの王様、めっちゃ可愛い。
ぎゅん、と音を立てた胸に思わずその場にしゃがみこんでしまったことは、失態だったと言えよう。
もう三十を過ぎた、己よりも年上の女性に対して(しかも相手は王である)どうなのかと思わなくもなかったが、それはそれとして、可愛いと思ってしまったのだから仕方がない。
いわゆる、ギャップ萌えという奴だった。
そこまでを思い起こしたところで、世話係ははっと我に返る。そうではない。それどころではない。今重要なのは、自分の問い掛けに対する王の返答が、予想外のものであったことである。
「何。どうしたの」
「あっ、いえっ」
訝し気な紫の王に見据えられて、びくりと肩を跳ねさせた世話係は、慌てて背筋を正した。それから少し迷った末に、ティーカップを手にじっとこちらを見ている紫の王に対して、おずおずと切り出す。
「その、ベルマ王陛下……」
「なに」
「ほ、本当に、よろしいのですか……?」
世話係の問い掛けに、紫の王は僅かに眉間にしわを寄せた。そんな主君の反応に恐縮する世話係をじっと見つめたまま、王がカップをテーブルに置く。
「壁ドン、とか言うの、やってほしいんでしょ? 良いよ」
聞き間違いではなかった。本当に、壁ドンをしてくださると仰った。
「ウッ!!」
予想外だった返答を貰った世話係は、あまりの衝撃に思わず胸を押さえてしまった。どうもこの世話係は、反応が過剰な節があるようだ。
「どうしたの? 体調悪いなら、仕事変わって貰って、さっさと休んで」
つっけんどんな言い方に聞こえるが、その実臣下の身を心から案じているが故の発言だ。それを十二分に判っている世話係は、王が我が身を心配してくれているという多幸感に倒れそうになったが、なんとか耐えてみせる。
「だっ、大丈夫です、はい……」
言いながら、世話係は先程自分が口にしたことを反芻する。
あろうことか彼女は、ちょっとした気の緩みから、王陛下に壁ドンをされたいという心の声を漏らしてしまったのだ。
これまでの奇行に近い反応からも判るように、この世話係は少し異常なほどに紫の王を推している。それ故に、最近流行りの壁ドンを紫の王がしたら絶対に可愛いに決まっている、と信じて止まず、王によって壁に追い詰められ、腕の中に閉じ込められ、あのシルバーグレイの瞳に下から見上げられたら心臓が止まりかねない、などと不埒な妄想を抱いたのである。そしてそれをぽろっと零してしまった結果、
(ま、まさか、承諾してくださるだなんて……)
こんな妄想が真に叶うなど欠片も思っていなかったのだが、世の中何が起こるか判らないものである。
(どうしよう……何の前触れ……? 私、明日死んじゃうのかしら……?)
勝手に己の死を悟った世話係は、しかし慌てて首を横に振った。
(だめ、死ねない……。私には陛下のお世話をさせて頂くっていう大事な仕事が……。いえ、何よりも、異動の指令が出るまでは、お傍でもっと陛下の可愛らしさを堪能したい……)
どこまでも煩悩に満ち溢れた彼女の思いは、幸いなことに口から飛び出ることはなかった。ただ、不埒な思考を巡らせているこの間、妙な沈黙が場にもたらされており、王は訝し気に眉を顰めた。
「本当に平気?」
「はっ、はい!」
慌てて背筋を正し、世話係は脂下がりそうな顔をなんとか引き締めた。そんな彼女のことを、王は少しの間じっと見つめたが、特に無理はしていないと納得したのか、判った、と言って扉の方を指差した。
「じゃあ、そこ、下がって」
「は、……下がる、のですか?」
「そう。扉の前まで行って」
唐突な命に内心で首を傾げるも、世話係はすぐに命令通り、部屋のドアの前まで下がった。それを確認した王が、こくりと頷く。
「じゃあ、走ってきて」
「……はい?」
「何してるの。こっち、走ってきて」
何故、と世話係の頭に疑問符が浮かんだが、これまた王命である。故に、逆らうつもりも理由も全くない。ただ、今までの流れからどうしてその命が出てきたのか、壁ドンはどこに行ったのか、という疑問は禁じ得なかった。
(まあ、でも、してくれると仰ったんだから、してくれるんだろうし……)
王の執務室で走る、というのはなんだか落ち着かないが、主君の要請である。
さてどれくらいの速さで走るべきか、と迷った彼女だったが、どうせなら勢いをつけた方が良いだろうと判断した。なんとも思い切りの良い世話係だ。
走りやすいようにとスカートの裾を少し持ち上げた彼女が、大して長くもない距離を結構な勢いで走り出す。狭くはないが広大な訳でもない執務室を、王目指して一目散に駆けてきた彼女は、しかし唐突に物凄い音を立てて後ろにひっくり返った。
ごちーん!
かなり痛そうな音と共にひっくり返った彼女は、何が起こったのか一瞬理解できなかった。だが、ずきずきと痛むおでこに、自分の身に何が起こったのかを察する。
唐突に現れた透明な壁――王の結界魔法による膜に、強かに額を打ちつけて転倒したのだ。
ちかちかと明滅する彼女の視界の中に、ふと影が落ちてきた。揺れる頭で必死にそれが何かを認識しようとした彼女は、徐々に像を結んだその姿に、はっと息を呑む。
王だ。王が、上から覗き込んでいるのだ。
王はいつもの冷めた顔ではなく、明らかに不思議そうで、心配そうで、困惑した顔をして、倒れた世話係を見つめている。
「…………もしかして、壁ドンって、こういうのじゃないの?」
ぽつりと落ちたその言葉に、世話係は先程よりも大きく息を呑んだ。
つまり、だ。王の謎の行動は、世話係の願いを叶えるためのものだったのである。王は恐らく壁ドンの内容を知らなかった。それでも王なりに熟考し、その上で壁ドンを“全力で走ってきた人物の目の前に結界魔法の壁を生成することで、壁にドンさせるものである”と結論づけたのだろう。そして見事にそれを実行してくれたのだ。そう、全ては、民である世話係のために。世話係の望みを叶えるために、王は悩み、考え、壁ドンをしてくれたのだ。あの、冷たいだとか感情の起伏がなさそうだとか言われることもある、紫の王が、である。
それは、――それはとても、とても、
「…………か、……か、わ、いぃ…………」
恍惚と呟いた世話係は、鼻血を噴いてかくりと意識を失った。果たして、気を失った原因は、結界壁にぶつかったことなのか、過剰な興奮によるものなのか。それは定かではないが、どちらにせよ紫の王からすれば予想外の事態である。
「えっ。ちょ、ちょっと、待って……。……だ、誰か、誰か! 回復魔法師呼んできて!」
珍しく焦った表情を浮かべた王が、これまた珍しく叫び声を上げた。その声を聞きつけて飛んできた臣下たちは、たかだか世話係一人に対してそこまで慌ててくれた王に、やはりこのお方に仕えられて幸福だと再認識したとかしないとか。
ちなみに世話係の怪我は大したことがなく、すぐに意識を取り戻した彼女は、澄んだ目でこう語ったと言う。
「心配をかけてしまい、陛下には大変申し訳ないことをしたのですけれど、あまりの多幸感に、血が止められなかったのです……」
何度も言うが、この世話係が特別変なだけで、多くの紫の国民は至って普通の人々であると認識して頂きたい。
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