各国壁ドン事情 黒の国編

 黒の国では民の多くが夜に活動しているが、だからといって全てがそうという訳ではない。昼に商売をしている者もいるし、子供はどちらかというと昼に活動している方が多い。大体十二を過ぎる頃になると、段々と夜型に移行していくのだ。

 そんな訳で昼にしては人の少ない町の外れで、少女がひとり、壁に向かってボールを蹴って遊んでいた。ふんふんと鼻歌まで歌いながら一人遊びを満喫していた彼女は、ふと壁の向こうから姿を見せた人物に、ぱちりと瞬きをした。

 近所の菓子屋で売っている饅頭をもぐもぐと食べながら、のんびりとこっちに向かって来ているのは、黒ずくめの男だ。その片手には、食べているのと同じ饅頭がぎっしり詰まった袋を抱えている。のんびりとした、というよりもどこかぼーっとしたような無表情の彼を、少女は知っていた。

「ヨアンさまだぁ! こんにちは!」

「ん? あー、こんにちは」

 たたたっと駆け寄ってきた子供に目を向け、ヨアン――黒の王は、気のない挨拶を返した。

「ヨアンさま、お昼なのにどうしたの? 何でここにいるの? お仕事は?」

「この饅頭が食べたくて来た。仕事はサボった」

 一切悪びれる様子もなくそう言った王に、少女は、いけないんだぁと声を上げて王を指差した。

 仮にも王に対する行動ではないが、そもそも黒の国では、国王が王であるという認識が薄い。自らの集団の頂点に立つものだという理解はあるし、実力者だからと尊敬もされているが、貴い存在だとはあまり思われていないのだ。黒の国には、王族というものが存在しないからだろう。言葉を選ばないのであれば、いわば山賊の頭領のようなものである。

 そんな中でも、当代の王は特に王らしくない。基本的に政は宰相のような立ち位置の部下に任せっきり、という、赤の王とはまた違った独特な思考回路を持つ、マイペースな男だった。

 そんな訳で、子供に指を差されたくらいでこの王が怒ることなんてない、と少女も知っているのだ。

「お仕事サボったらいけないんだよ、ヨアンさま! リューイさまに怒られちゃうよ!」

 リューイさまというのは、黒の王のお目付け役として昔から仕えている、リューイ・アッセルという男のことである。他の国で言う宰相に匹敵する立ち位置にいる彼だが、黒の国には宰相と言う役職がないため、もっぱら世話役と呼ばれている。

「えぇ……別にいいよ。世話役、いつも怒ってるから慣れた。それにこの饅頭食べたかったし、仕方ないよ」

 少女の忠告をあんまりな言葉でばっさり切り捨てた黒の王に、彼女は驚いた顔をした。

「えぇっ、ヨアンさま、こわくないの? わたし、お母さんに何度怒られてもこわいのに」

「それはあんたが弱いからじゃない? もっと強くなりなよ」

「強くなればお母さんが怒ってもこわくなくなるの?」

「なるんじゃない?」

「じゃあわたし、もっと強くなる! お母さんより!」

「ん、がんばれば」

 ズレた助言を受けて奮起する少女を見下ろし、投げやりな頑張れを返した王は、そのままふらりと立ち去ろうとした。が、それを少女に引き止められる。

「あっ、ちょっと待って、ヨアンさま!」

「なに?」

 足を止めた王が振り返ると、なんだかきらきらした顔で見上げてくる少女が目に入った。そして彼女は、王の腕をぐいぐいと遠慮なく引っ張り、先程までボールをぶつけていた壁を指差した。

「ねぇヨアンさま、壁ドンやって!」

「かべどん?」

 意味が判らないといった風に王が首を傾げると、少女は信じられないものを見たという顔で叫んだ。

「えー! ヨアンさま、壁ドン知らないの!?」

「知らない。興味ない」

「今すごいはやってるんだよ、壁ドン! 黒だけじゃなくて、ほかの国でもはやってるんだって!」

「へー」

 心底どうでも良さそうな返事を気にもせず、少女はもう一度、壁ドンをして欲しいとねだった。ヨアンさまにしてもらえたらみんなに自慢できるから、と無邪気な欲を明け透けに言ってくる彼女に、王は再び首を傾げる。

「かべどんって、何すればいいの?」

「えっとね、壁をどーんってすればいいんだよ!」

「壁を、どーん?」

「そうだよ! わたしにやってね!」

 少女のなんともあやふやな説明に、王はうーんと首を捻った。

「それ、そんなにやって欲しいの?」

「うん!」

「へぇ」

 元気良く返事をした少女に、王はひとつ頷いた。判った、と肯定され、少女がやったぁと歓声を上げる。

 わくわくと顔を輝かせている少女を尻目に、王は近くにあった木の枝に饅頭の袋を置いてから、すたすたと壁に近寄った。

 不思議そうに瞬きを繰り返す少女の前で、名を呼ばれた地霊と火霊が、ふわりと王に寄り添う。そのまま王は右手を握り締めると、レンガの壁に迷いなく拳を叩き込んだ。

 がごん、と重く鈍い音を立て、強化魔法を纏った右手は容易く壁を突き破った。その結果できた穴に、王が両手の指を掛ける。

「よっと」

 それはそれは軽い調子で、王はメキメキと壁を引き剥がした。

 結構な塊となって分離された壁は相当な重量があるはずだが、身体強化をしている王にとっては問題にならないらしい。

 軽い調子でよいしょと壁を持ち上げた王の、何を考えているのかよく判らない黒い瞳が、目と口を大きく開けた少女の姿を捉える。

 そして、


「どーん」


 無感動な一本調子の掛け声と共に、レンガの壁は豪速で少女に向かって投擲された。

 

 かくして、哀れな少女はレンガの壁に潰され、見るも無残な死体が……、とは、ならなかった。

「……あれ?」

 あまりの事態に目を瞑ることもできなかった少女は、いつの間にか壁と自分との間に割り込み、壁を受け止めている人物がいることに気がついた。

 王が投げた壁の勢いは相当のものだったようで、壁を受け止めた人物の足元の地面には、押されて大きくずり下がった跡が刻まれている。

 はぁ、と安堵の息を吐き出して壁を地面に置いたのは、茶色の緩い癖毛を三つ編みにした男だった。少女は、この男のことを知っている。

「リューイさま……?」

 そう、黒の王の世話役、リューイ・アッセルである。

「あれ、世話役じゃん。何やってんの? サボリ?」

 突然の乱入者に驚いた様子もなく、いつものように尋ねてきた王に、世話役のこめかみにびきりと血管が浮いた。

「サボリじゃありません! 貴方と一緒にしないでください! というか、貴方こそ公務をサボって一体何をやっているんですか! なんで壁をぶん投げているんですか! 私が間に合わなかったらどうするつもりだったんですか!」

「ええ、別に……。本気で壁に潰されそうだったら、その前に俺がなんとかしてたよ」

「ああ言えばこう言う! 微動だにしなかった癖に!」

「そりゃだって、世話役より俺の方がよっぽど速いんだから、世話役にとってはあれがギリギリのタイミングでも、俺にとってはまだ様子見できるタイミングだったんだよ」

 物凄く腹が立つことを言われた世話役だったが、事実なので言葉を呑み込む。実際この王ならば、本当に少女に壁がぶつかる寸前に助けに入っていたことだろう。

「判りました。それは認めましょう。ですが、なんだってこんな馬鹿な真似をしたんですか! 危ないでしょう!」

「ええ、そんなこと言われても。俺、頼まれたことやっただけだし」

「何を頼まれたって言うんですか!」

「かべどん」

 悪びれる様子もなく言われた言葉に、世話役のこめかみにもう一筋血管が浮いた。

「どうやったら壁ドンがこんなことになるんですか!!」

「え、知らないけど、俺が投げる壁避けたかったんじゃない? 力試しみたいなものでしょ。でもその割に全然動かなかったんだよね、この子。何考えてんだろう」

「~~~~ッ!」

 何考えてんだはこっちの台詞だ、と怒鳴ろうと口を開いた世話役だったが、何度か口を開いては閉じ、最後には重々しい溜息を吐き出すに終わった。この王に何を言っても無駄なのは、それはもう昔から知っていることなのだ。

 怒りを何とか静めんとばかりに深呼吸を繰り返してから、ようやく気を落ち着けた世話役は、未だ目を丸くしている少女を振り返った。

「ごめんね、馬鹿なヨアン様のせいで、怖い思いをさせてしまったね。怪我はしていないかな?」

「は、はい」

「馬鹿馬鹿って、さっきから失礼だなぁ」

「ヨアン様は黙っていてください」

 王を睨んでぴしゃりと言った世話役が、また大きく息を吐いてから、笑顔で少女の頭を撫でた。それから王に向き直った彼は、怒りも露わな形相でずかずかと主君に歩み寄った。

「さぁ帰りますよ、ヨアン様。お陰さまで書類が溜まっているんです」

「そんなこと言っても、俺どうせ読まずにサインしたりしてるだけじゃん。読んでるの世話役じゃん。もう世話役がサインすれば良くない?」

「一応国王陛下なんですから、サインくらいしてください! 第一、毎度毎度私が要点をまとめて解説はしています! 私の言うがままにサインしている訳じゃないでしょうに!」

 それはそうなんだけど~、と言う王の腕を、世話役ががっしりと掴む。

「まずは書類を片付けてください。それが終わったら次はこの壁です。ちゃんと修繕してくださいね」

「何で?」

 首を傾げた王の頭を、世話役がすぱこーんと引っ叩いた。

「何でも何もありますか! ご自分で壊したものはご自分で直すものです!」

「ええ……、俺、言われたことしただけなのに……」

 ぶつくさ言っている王を引き摺りながら、世話役はふと少女の方を見た。

「あとで改めてお詫びするけれど、取り敢えずそこのお饅頭は、迷惑料として君が食べていいよ。ごめんね」

「え、俺の饅頭なんだけど」

 王から抗議の声と目を向けられるも、世話役は完全にそれを黙殺した。最早相手にすまいという強い意志が感じられる。

 そのまま引き摺られる王と引き摺る世話役の姿が見えなくなってから、少女はとてとてと饅頭の袋を取り上げた。そこから一つ取り出し、食べる。皮が薄く、程よい按配の甘さだ。多分お高いのだろう。

「……今日のこと、みんなに自慢しなくちゃ!」

 壁の大穴と引き剥がされた壁だったものを見つめてから、少女はボールと袋を抱え込み、家に向かって猛然と走り出した。

 なんとも豪胆な少女である。

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