各国壁ドン事情 緑の国編
「あー、パウリーネ王陛下に壁ドンされてみてぇ……」
緑の国の王宮庭園で警備を行っていた衛兵の隣で、同僚の衛兵がぽつりとそう呟いた。そんな彼の呟きに、衛兵は顔を顰めて苦言を呈する。
「おいお前、不敬だぞ」
咎めるように言われ、壁ドン発言をした同僚はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「そりゃ、俺だって本当にして貰えるなんて欠片も思っちゃいないさ。でも、想像してみろよ。パウリーネ王陛下だぞ? して頂けるならして貰いたいだろ」
「…………まぁ」
思わず想像してしまったらしい衛兵が、言葉を濁す。勿論、敬愛する緑の王に壁ドンをされて嬉しくない訳がない。可能かどうかはさておき、して貰いたいかどうかだけで言うなら、それはして貰いたいに決まっている。
とはいえ、不敬なものは不敬だ。衛兵は、自身の想像を打ち消すように咳払いをしてから、ほらみろと指を差してくる同僚に対し、じとっとした目を向けた。
「仮にもしそう思ったとしても、私はそんな明け透けなことは言わない」
「思ったんなら同罪だろぉ?」
「というかお前、なんでする側じゃなくて、される側なんだ?」
衛兵が不思議そうに言えば、同僚は、馬鹿かお前、と顔を顰めて返した。
「して貰うならともかく、俺がする側なのは流石にまずいだろ。畏れ多すぎるし」
「して貰いたい、というのも十分に不敬だと思うんだが。……まぁ確かに、する側となると、最早不敬を通り越した悪行極まりない気がするな」
衛兵の言葉に、同僚がうんうんと頷く。
「そうだろ? パウリーネ王陛下に壁ドンなんてした日には、こう、運が良くてただの左遷……」
「運が悪かったら近衛兵に畳まれるか」
「いや、陛下に吹き飛ばされる」
「……ああ……」
同僚の言葉に衛兵は、確かに近衛兵よりも陛下の方が早く動くだろうな、と思った。
「それで生きていられたらいいけどよ」
「いや、流石に弁明の前に殺すような方じゃないだろう」
「判ってるけど。判んないだろ」
「……まぁ……」
緑の王は一見たおやかで大人しくお淑やかそうな女性だが、あくまでも一見しての話だ。物腰こそ穏やかだが、実際そんなに穏やかな人物ではないというのは、国民たちの共通認識である。要するに、キレると怖い。
勿論、民を大切にしているあの王が、いきなり民の命をどうこうしてしまうということはないだろう。が、それはそれとして、無礼に対する仕置きは当然の義務として行使される筈だ。そしてその場合、手加減はしても容赦はしないのが、当代の緑の女王である。
薄ら寒くなった背筋に、二人が黙り込む。しばし重苦しい沈黙が二人の間に横たわったあと、先に口を開いたのは同僚の方だった。
「……でもやっぱ、陛下にして貰いてぇな」
「まだ言うのか。豪胆な奴だな……」
呆れを通り越して半ば感心したような声で衛兵が言えば、だってロマンを感じたいだろうと謎の主張が返ってきた。
「ロマンねぇ」
「ロマンだ。だってパウリーネ王陛下からの壁ドンだぞ? されてぇだろ? 流行にのっとってさぁ」
「わたくしからの、壁ドン、ですか?」
「そうですそうです、陛下からの壁ド、」
そこまで言って、衛兵たちは口を閉じた。一拍の間を空けて、揃って背後を振り返る。
果たしてそこに居たのは、
「パッ、パパ、パウリーネ王陛下……!」
先程から何度も会話に登場していた人物、当代の緑の王が、二人の背後に立っていたのだ。それを認識するや否や、衛兵二人の顔面が蒼白になる。
「ごきげんよう。良く勤めを果たしていますか?」
「はっ、はい!」
「異常ありません!」
「それは何よりですわ」
背筋を正して返答する衛兵に、緑の王は小さく頷いた。対する衛兵二人は、全身が緊張でガチガチに固まっている。
普段なら、いくら王との会話と言っても、ここまで緊張することはない。寧ろ、声をかけられて光栄だと、舞い上がらんばかりの気持ちになりさえするのだが、如何せん状況が圧倒的によろしくなかった。どう考えても、壁ドンがどうのという世迷言をばっちり聞かれていることは明らかである。
緑の王は立ち去ることなく、二人の前に立っている。たかだか衛兵を前に未だに立ち去らないのは、恐らく先ほどの世迷言について何か思うところがあるのだろう。
脂汗を滲ませている衛兵たちの背筋は、緊張のあまりとても寒い。そんな中、緑の王の静かな目が、世迷言を口にした方の衛兵に向けられた。
「そこの貴方」
「はいっ、何でございましょうか!」
「わたくしからの壁ドンを受けたいと、言っていましたわね?」
「ッ、ぅ、……は、はい……」
王に問われては答えないない訳にいかない。そう思って、彼はしおしおと消え入るような声で肯定した。
「そのようなものが流行しているとは知りませんでしたわ。そんなにも、壁ドンというものをされたいのですか?」
ああ、終わったな。
自分に矛先が向かなかったことに内心でほっとしつつ、残った方の衛兵は、ちらりと同僚の様子を窺った。憐れなことに、同僚の顔色は蒼白を通り越して真っ白になっている。
まあでも自業自得だからな。最悪のことになっても骨くらいは拾ってやる。
そんな気持ちで、じっと息を潜めるように緑の王と同僚を窺っていると、不意に王が困ったような顔で首を傾げた。
「わたくしは構いませんが、本当に良いのですか?」
「えっ」
「は?」
ほぼ同時に間抜けな音を漏らした二人は、無礼も忘れて王の顔をまじまじと見てしまった。少しの間惚けていた二人だったが、襲い来る困惑から立ち直るのが僅かに早かったのは、お調子者の衛兵の方だった。
「……よ、よろしいのですか?」
恐る恐る彼がそう訊ねれば、相変わらず少しばかり困ったような表情の王は、それでも確かに頷いた。
途端、血の気が失せた顔をしていた衛兵の頬に、みるみるうちに赤みが差した。対するもう一人は、未だ動揺に呑まれたまま、相方と王の会話を呆然と聞いている。
「パッ、パウリーネ王陛下に壁ドンをして頂けるとは、恐悦至極でございますっ!」
「そうなのですか? そこまで喜ぶほどのことなのでしょうか……」
「はい! 勿論です!」
喜色満面の衛兵がそう言えば、王はやはり困った顔のまま、それでも少しだけ微笑んで返した。
「……そうですか。しかし、本当に、やっても良いのですか?」
「是非お願い致します!」
こんなチャンス逃してなるものか、という気迫すら感じさせる勢いで、衛兵がそう言う。それを受け、王も決心したようだった。
「判りましたわ。そこまで言うのであれば」
あれ、と。
そこでふと、真面目な方の衛兵は気づく。壁ドンをして貰えると高揚している方は、舞い上がっているせいか気にも留めていないようだが、先程から王がやたらと確認を繰り返している。それこそしつこいくらいに。
壁ドンを頼んでいる側が、本当にして頂けるのかと何度も確認をするなら判るが、する側である王が、そんなにも念を押すようなことがあるだろうか。
しても良いと言い始めたのは、王自身だ。であれば、壁ドンをしたくないから遠回しに断っている、ということもあるまい。第一、断るなら断るで、きっぱりはっきり言う方である。
衛兵の胸に、なんだか嫌な予感がよぎった。
陛下、と。真面目な衛兵がそう声をかけようとするのと、王が右手を同僚に向けてかざすのが、ほぼ同時だった。
「風霊」
柔らかな声が風霊の名を紡いだ瞬間、嵐のごとき突風が吹き荒れ、凄まじい勢いで同僚の身体が吹っ飛ばされた。
残された衛兵が、飛んでいく同僚の姿を目で追えば、吹き飛んだ勢いのままの彼が、庭園を囲む壁に叩き付けられるのが見えた。
緑の王が喚んだ突風は、軽鎧を着込んだ大の大人をいとも容易く吹き飛ばしてしまったのだ。
少しの間、呆けた顔でそれを見ていた衛兵は、はっと我に返り、慌てて同僚の元へと駆け寄った。
「だっ、大丈夫か!?」
身動きひとつしない身体を見て死んだのではないかと思った衛兵だったが、よくよく確認すれば、目を回して意識を失っているだけのようだった。しかし、壁がへこみ崩れる勢いで叩き付けられた以上、完全に無事とはいかないだろう。
とにかく医務室に運ばなければ、と思った衛兵が同僚の身体を抱える前に、緑の王の命を受けたらしい風霊たちが、彼の身体を優しくふわりと持ち上げた。出来る限り身体に負担がいかないようにと配慮された、実に繊細な風霊魔法である。静かに優しく、しかし迅速に医務室へと運ばれていく同僚を見た衛兵は、流石は王陛下だ、と現実逃避のように思った。それから王の方を見れば、彼女は珍しく困惑した顔をしていた。
王が小さく、どうして、と呟くのが聞こえて、いや陛下がされたことなのですが、と思わず言いそうになった衛兵だったが、寸でのところで言葉を飲み込んだ。
「まさか、無防備に飛ばされてしまうだなんて……」
やはりぽつりと呟くように零された言葉に、では一体どういうおつもりで吹っ飛ばしたのですか……、と衛兵は思ったが、やはりそれを口にすることはなかった。
騒ぎを聞きつけた王宮の人間たちがわらわらと駆けつけてくるなか、事態を飲み込み切れないままでいる衛兵は、ただぼんやりと立ち尽くすばかりだった。
後日、同僚の見舞いに訪れた衛兵が同僚から聞いた話によると、緑の王は「訓練の一環として壁に叩きつけて欲しいのかと思った」のだそうだ。どのような場合でも受身を取れるようにしたいのだろうと思ったため、無防備に吹っ飛ばされた衛兵の姿に驚き心配したらしい。
あまりの無防備さに、緑の王が咄嗟に壁との間に風でクッションを入れてくれていたらしく、そのお陰で同僚は、全身の打ち身と打撲だけで済んだそうだ。そうでなかったら、確実に骨折くらいはしていただろう。
身から出た錆とは言え不運な奴だなぁ、と思った衛兵だったが、同僚の方は意外とそうは思っていないようで、パウリーネ王陛下が直々に見舞いに来てくれたことを幸せそうに自慢して回っていた。
真面目故に絶対にこうはなれない衛兵は、やっぱりこいつ豪胆だなぁ、と思った。
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