各国壁ドン事情 青の国編

「今、大陸中で壁ドンが流行っているのです」

 恥ずかしそうに言う女官の言葉に、青の王は訝しげな顔をした。

「……壁ドン?」

「はい。レイフィル王陛下は、XXXXXという本をご存知でいらっしゃいますでしょうか? その本がとても流行っていて、その中に壁ドンが出て来るのです」

「……いえ、知りませんね」

 少しばかり考え込み、思い当たらなかった青の王は、ゆるりと首を横に振った。その拍子に、高い位置で結い上げた美しい青の髪がさらりと揺れる。その美しさに、女官は思わず小さな溜息をついた。

 そもそも何故このような話になったのかと言えば、執務室で休憩中の王にお茶を出しに来た女官が、王の姿に見惚れたところから始まる。

 この女官、最近流行中のとある物語にハマッており、昨夜ちょうどヒロインが壁ドンを受けて迫られているシーンを読んで、大いに盛り上がっていたところだった。

 翌日も興奮冷めやらぬまま、職務に粛々と臨んでいた女官は、王にお茶とお茶菓子の給仕を行ったあたりで、ふと思ったのだ。

 青の王は、美しい顔をしている。無論、美しいのは何も顔だけではなく、さらりと流れる青の長髪然り、その流麗な立ち振る舞い然り、どれをとっても美しい。だが、青の王のご尊顔が、薄紅の王が満足するくらい美しいこともまた、事実である。

(レイフィル王陛下に壁ドンをされたら、あの主人公みたいにときめくなんてものじゃあないわねぇ)

 頭の片隅に昨夜読んだ物語が残っている女官は、それと自国の王をぽんと結びつけた。そして夢想しかけ、止める。畏れ多い気持ちが湧いた以上に、余りに刺激の強すぎる想像だったからだ。

 ただ、そんなことを考えている間、視線が王の顔に向いていてしまっていた。それは短い時間のことだったが、王はついと顔を上げ、女官に視線をくれた。

「何ですか?」

「……あっ、もっ、申し訳ございません、陛下!」

 はっと気づけどもう遅い。王に不躾な視線を向けてしまったことを恥じ入り、女官は深く頭を下げた。

 その姿を王はじっと見つめる。少しして、沈黙に死にそうになっている女官の耳に、深い溜め息が聞こえた。

「もう良い。顔を上げなさい」

「っ、は、はい……」

「以後気をつけるように」

「はい、申し訳ございません」

 許しを得てそろそろと顔を上げた女官は、心中で盛大に安堵の息を吐く。ここですべき仕事は終えたのだから、早く次の業務に向かおう。

 そう考え、ワゴンを引いて退出しようとした女官だったが、

「それで?」

「は、はい?」

 声をかけられ、慌てて足を止めて女官は振り返った。静かな顔ですっと女官を見据え、青の王は問う。

「私がどうしたのですか」

「え、いえ、あの……」

 別にどうしたと言うほど大したことではない。ただの妄想である。それを口にするのは死ぬほど恥ずかしかったのだが、王に問われて返さない訳にはいかない。それに、王の鋭利な氷のような瞳は、誤魔化しを許さない強さがあるのだ。そんなもので見つめられて黙っていられるほど、女官は肝が据わっていなかった。

 僅かに目を伏せた女官は、おずおずと『理由』を言うために口を開いた。

 そして冒頭に戻る。


 一度口にして伝えてしまえば幾分か気が楽になる。心にも余裕ができて、女官は小さく笑って見せた。

「面白い物語ですので、もしもお時間があれば是非読んでくださいませ」

「そうですか。それでは、時間があれば」

 そう言う王はつれなく見えるが、時間があればと言った以上、空き時間ができたら本当に目を通してくれるのだろう。一見冷たい印象を受けがちな青の王だが、民草への思いは真摯であるのを女官は知っていた。

 彼女は笑みを深め、それでなのですが、と口を開いた。

「もしも、陛下に壁ドンをして頂けるようなことがあれば、国民の誰しもが天にも昇るような心地になるのだろうな、と思ったのです。……あ、いえ、勿論、畏れ多くもそのようなことを本当にして頂けるとは思っておりませんが」

 実際は自分がされたらという、もう少し不埒なことを考えていた訳だが、流石にそれを口にすることは憚られた。

「…………」

「陛下?」

「いえ」

 ふと黙り込んでしまった王にきょとりと女官が首を傾げた。それに対し、王は小さく首を横に振る。そして、暫く考え込むような素振りを見せた王は、僅かばかり眉を寄せて女官に尋ねた。

「……そんなにも、民が喜ぶのですか?」

「はい、私はそう思います。皆、レイフィル王陛下をお慕い申し上げておりますから」

 女官の返答に、王は再び黙り込んだ。

 何事か思案しているような様子に、女官は俄かに不安になった。やはり、陛下に壁ドンをして頂くなど、想像だけでも不敬極まりなかっただろうか。

 だんだんと心臓が早鐘を打ち始めていた女官は、不意に王が立ち上がったことで、思わず肩を跳ねさせた。

「へ、陛下?」

 どうなさったのですか、と訊く前に、青の王はつかつかと近くの壁に歩み寄り、手を翳した。

 そして、

「壁ドン、……をすれば良いのですね」

 水霊、と。王がそう呼んだ次の瞬間、王の手元に現れた水がぎゅうっと凝縮し、一拍の間もなく、壁に向かって弾け飛んだ。

 高圧の水をまともに食らった壁は、当然のことながら爆音と共に崩れ、細かな彫刻が美しかった執務室の壁には、見事な大穴が開いた。

 少しの間、自らの空けた穴をしげしげと眺めていた王が、女官へと振り返った。これで満足か、と確認するような目をした王に向かい、女官は暫くの沈黙の後、のろのろと口を開いた。

「…………畏れながら申し上げます、レイフィル王陛下」

「なんでしょう」

 訝しげな王に向かい、女官は意を決して真実を口にする。

「その、…………壁ドンは、壁を破壊するものでは、ないのです……」

 王が僅かに目を見開いたのを見て、女官は己の発言の軽率さを猛省した。

 なお、その後駆けつけた臣下たちに王は一言、壁が壊れた、とだけ言ったが、魔力の残滓や状況から、壊れたというよりも青の王の手によって破壊されたことは明白だった。そうでなくても、その場にいた女官が己のせいであると事実をつまびらかに他者に話したため、一週間もすればこの出来事は、青の国どころか、円卓の国家中に広く知れ渡ることになるのであった。

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