各国壁ドン事情 赤の国編
「そう言えば、知っておられますか、陛下。今、市井で“壁ドン”が流行っているのですよ」
書類を仕上げた赤の王がそのまま筆を置いたため、これから休憩に入るのだろうと察した文官が、お茶の用意をし始めた。そんな中で文官がふと口にしたのが、上述の言葉である。
話を振られた赤の王は、カップとポットを温めている文官の背中に目を向け、小さく首を傾げた。
「“壁ドン”か。聞いたことがないな」
「今リアンジュナイル中で流行っている物語の中にその描写があって、そこから流行りだしたようですね」
振り返り、ははは、と笑う文官に、赤の王も優しげな笑みを返した。
王の笑顔を見た文官は一瞬尊そうな顔をしてから、視線を手元に戻し、再びお茶の準備を進め始めた。ポットの中に茶葉を入れてから、ことりと砂時計をひっくり返して王に向き直る。
「私自身は読んだことがないのですが、妻が好きでして。よく話を聞かされます」
お茶を蒸らしている間にも、文官はのんびりと話を進める。よく赤の王の執務室に出入りするこの文官は、休憩時間にこうして王と会話をするのが好きだった。
そんな文官が今回選んだ話題が、壁ドンである。この壁ドンというものが出てくる物語は随分面白いらしく、文官の妻は、やたらと興奮した様子でこの物語について語って来たものだ。
だが、熱の入った様子だった妻には申し訳ないが、文官には壁ドンの良さがいまいちわからなかった。壁に押し付けられて迫られても……、と思うのだが、それは文官が男性だからだろうか。妻にはロマンのない男だと呆れられたが、大半の男性は壁に追いやられても困るだけだと思う。
しかしそこでふと、文官は気づいた。そして、彼はそのままそれを口にする。
「私には壁ドンの良さがよく判らなかったのですが、……もしもそれを陛下にして頂けたのならば、と考えると、理解できるような気もします」
「私に?」
きょとんとした顔で言った王に、文官が頷く。
「はい。陛下にして頂けるのであれば、妻の言っていたロマンというものを感じられるような気がするのです」
なんと言っても、ロステアール王陛下である。歴史上最良にして最高の王が至近距離まで近づいてくれるとなれば、誰しもが嬉しく思うことだろう。
そんな感じで信者特有の思考回路でうんうんと頷いていた文官は、赤の王が立ち上がって近くの壁に向かっていることに気づくのが、一歩遅れた。
ん? と文官が思った時には既に、赤の王は壁のすぐ傍にいて、その右手がそっと壁に向かって伸ばされ――
耳を劈く轟音を響かせて放たれた熱が、王の目の前の壁を吹っ飛ばした。
「ああ、お前たち! どうしてそう毎度毎度派手に爆破するのだ! もう少し威力を落とせといつも言っているだろうに!」
困ったような慌てたような声で、赤の王が火霊たちに苦言を呈している。それをぼんやりと聞きながら、瓦礫と化した壁の向こうに見える青空を仰いだ文官は、そらがきれいだなぁ、と思った。現実逃避である。
文官がぼーっと空を眺めていると、バタバタと慌てたような足音が近づいてきて、ばんっと音を立てて扉が開いた。
「一体どうなさったのですか、陛下!」
レクシリア宰相である。血相を変えたその顔にはありありと心配と焦りの色が浮かんでおり、国王の身を案じてすっ飛んできただろうことが窺えた。王の執務室から轟音が響いてくれば誰でもそうなるだろうな、と文官は思った。
そんなレクシリアの目が、呆然としている文官と、困ったような表情をしている王を見て、最後に瓦礫の山へと向いた。随分と風通しの良くなった執務室をまじまじと見たレクシリアの表情が、心配から別のものへと徐々に移ろっていく。
「っ、リーア、さん、速いっ、」
新たな声が聞こえて、文官が宰相の後ろに目を向けると、ぜいぜいと肩で息をする宰相の秘書官がいた。国王の危機(推定)に全力で走ってきた宰相を追って、こちらも全力で走ってきたのだろう。二人の息の乱れ具合が異なるのは、単純に体力や持久力の差だと思われる。
ようやく追いついた宰相の背中越しに部屋の惨状を見た秘書官は、盛大に眉をひそめた。
「あ? なんだこれ?」
思わず呟いた秘書官は、しかしすぐに、顔を伏せわなわなと震えている宰相の様子を認めて、さっと自身の耳を塞いだ。
そんな秘書官の動作に文官が疑問を抱く前に、赤の王が口を開いた。
「おお、レクシィ。血気迫って大丈夫か? 私はちょうど壁ドンをしたところでなぁ。いやしかし、このようなことが市井で流行しているとは、中々過激なものだ。皆に怪我がないと良いのだが……」
そう言った王が民を案じるような表情を浮かべたところで、がばりと宰相が顔を上げた。その表情を見てしまった文官が、ひっと喉の奥で悲鳴を篭らせる。
「こっ、んの、大馬鹿野郎がぁああああああ!!」
鬼の形相を浮かべた宰相の口から、先の轟音に負けずとも劣らない怒声が放たれる。
王宮中に響き渡ったのではないかと錯覚するほどのそれに耳をやられながら、だからあの秘書官は耳を塞いだのか、と文官はぼんやり思った。
まさか壁ドンの話をしただけで、あんなにも流れるように壁が破壊されるとは思わなかった――文官は後にそう語ったという。
ちなみに、それから暫くの間、宰相より厳命された赤の王が、ひとりでぺたぺたと壁を修復している姿が目撃されるのだった。
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