第115話 治療開始

 車イスに乗ったラルフは医務室の個室に居た。本来ここで医療を受ける者は貴族の中でも本当に限られた者しか許されていない。その一室を一般市民であるラルフがこれから治療を終えるまで独占する。これは異例中の異例な事である。

 その病室は1人が使うには十分過ぎる程の広さがある。しかし、大勢の人間がいるのはやはり窮屈である。現在その病室に多くの人間が押し寄せていた。ちなみに押し寄せている者たちは研究所職員である。


「ではこれより竜血樹の投与を始める。実験体は成人男性、名前はラルフ…」


 真面目で少し重苦しい口調でシュバルツがしゃべり出す。その言葉に数名の研究所の職員がメモを取る。その様子を緊張な面持ちで見守るルー。そしてラルフ自身もいささか緊張をしていた。

 ついに自身の竜血樹の樹液が投与される。これで脚が治す事が出来る。だがやはり未知な物を取り扱う事に不安は隠せない。そこへシュバルツが話しかけて来た。


「ラルフ君、待たせたな。定例的な文言は終わった。気分はどうだ?」

「悪くないです。いたって健康です…まぁ緊張はしているけれども。それよりもなんでこんないっぱい人がいるんです?」

「彼らは新人でな。せっかくの機会だから研修として立ち合わせた。それでどうする?まだ今なら止められるが」


 それを聞いたラルフは首を激しく横に振る。


「とんでもない。このままやって下さい」


 それを聞いたシュバルツは「実験体の健康状態は良好。そして最後の同意確認」と答え、頷いた。


「ラルフ君、これから竜血樹の樹液の投与を行っていくが担当はこの子になる」


 シュバルツの声と共に何人もいた研究所職員の一番後ろから1人の女性が前に出て来た。

 その女性は背が低く、ブラウンの長い髪の毛を三つ編みにしていた。シュバルツと同じくメガネをかけていたが、ただ彼女の丸いメガネはとてもレンズが大きかった。頬の上にはほんのりとそばかすが見える。


「ラルフさん、始めまして。私はモニカと言います。どうぞよろしくお願いします」


 モニカは体を折るかのように大げさに頭を大きく下げた。おかげで胸に指していたいくつかのペンが床へと散らばる。モニカはそれを慌てて拾う。ラルフはそれを見て苦笑いをする。


「ラルフ君、心配しているかもしれないが彼女は優秀だ。安心したまえ」

「心配なんかしてないですよ。モニカさん、よろしくお願いします」


 ラルフはペンを拾い終わって顔を上げたモニカに声を掛ける。


「ラルフさん、敬語は使わないで大丈夫ですよ」

「でもやっぱり治療をしてもらう偉い人だから」

「気を使われるとこっちもこそばゆいです。聞くところによると私と同い年の16歳みたいですし…それに私も普通の平民出身ですので」


 モニカはそう笑って答えた。これは彼女の意志表示であった。

 城では多くの平民が働いている。庭師、侍女、料理人、兵士などこれらはほとんど平民である。だが研究所職員については貴族出身、あるいは裕福な平民から成り立っている。その理由として研究所職員には教養が必要とされるからだ。研究所職員になるには教育を受け、難関な試験を合格した上で晴れて迎え入れられる。必然的に教育を受けさせられる金に余裕のある家庭に生まれた者にしか研究所職員になる事は出来ないのだ。

 だがモニカは違った。貴族でなければ裕福な平民の家の子でもない。ラルフのようなスラム出身ではないが、セクター3に生まれた家庭であった。縁あってシュバルツに声を掛けられ研究所職員になったのだ。

 賢い頭を持ち合わせた研究所職員であってもやはり鼻持ちは存在する。そんな者にとってモニカはやはり異質な存在で蔑む対象であった。肩身の狭いモニカはなるべく控えて行動するよう心掛けていた。だから今も病室の一番後ろに並んでいた。

 モニカはそんな自分にかしこまらないで欲しいと思った。ラルフに余計な気を使わせたくなかったのだ。


「…分かった、モニカ。よろしく頼む。モニカも俺に敬語は使わないでくれ」


 その言葉にモニカはにっこりと微笑んで頷いた。


「ではこれより…しまった!樹液を研究所に忘れてきてしまいました」


 そう言って慌ててモニカは医務室を出て行く。


「あの…シュバルツ様、彼女は大丈夫なんでしょうか?」


 ルーはモニカに好印象を覚えた。だが先程から垣間見えるモニカのおっちょこちょいによって、これから行うラルフの脚の治療が失敗してしまうのではないかといたたまれなくなって声を発した。


「だ、大丈夫だ。彼女は勤勉で優秀…優秀なはずだ」


 そう言って苦笑いをした。

 そこへ扉を引く音が聞こえる。もう戻って来たのかと思ったがそこに入って来たのは宰相のウルベニスタだった。シュバルツ以外の研究所職員が全員直立不動となる。


「シュバルツ君、今君のところの職員が大慌てで走っていたが…」

「申し訳ありません。忘れ物をしたようで」

「そうか、それならいいんだが——ラルフ、体調はどうだ?」

「あぁ、問題ない。こんな豪華な病室を用意してもらって。悪いな」

「そんな事気にするな。お前は脚を治す事だけ考えればいい」


 2人の談笑を聞いた研究所職員たちはウルベニスタに敬語も使わず気軽に話すラルフを見て目を丸くしていた。こいつは一体何者なんだと。

 話を終えたウルベニスタは病室を出て行く。その入れ替わりのようにモニカが戻って来た。


「お、お待たせしましたー!」


 息を切らすモニカ。手には液体の入ったビーカーを持っている。その液体はほんのりと赤い。


「それではこれからラルフに竜血樹の樹液の投与を始めます。ラルフ腕を」

「腕?脚じゃないのか?」

「腕、腕を出して」


 ラルフは言われた通りモニカに向かって腕を出す。モニカはそのラルフの腕をよく観察し、そして触診するように念入りに触れる。


「腕にケガは…見当たりませんね。よし」


 そう言って胸のポケットから刷毛を取り出した。それをビーカーの液体につける。


「これは竜血樹の樹液を10倍に希釈したものです」


 そして10倍希釈の樹液が染み込んだ刷毛を取り出し、ラルフの腕の一部に塗った。


「ラルフ、どう?何か感じる?」

「いや、何も感じないけれど」

「変化なしと。じゃあこれで24時間様子を見ます」


 その言葉と同時にシュバルツを始めとする研究所職員は病室を出て行く。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。モニカ、今日の投与ってもしかしてこれだけか?」

「うん、そうだけど」

「もっと竜血樹の樹液を飲んだりとかするんじゃないのか?」

「はぁ~?」


 モニカの表情がみるみる内に変わって行く。まるで異質な物を見るかのように。


「あなたはあれですか?バカなの?」

「えぇ~!?」


 これにはラルフも面を食らった。


「そんな危険な事させるわけないじゃない。良薬と毒は表裏一体。いきなり原液を投与するバカがどこにいるのです?…あぁバカはあなただった」


 これにはルーも笑い出した。


「そもそも私としては人への投与はまだ早いと思ったの。でもなんか急に話が進んで…とにかく、体への影響を考えて今は希釈した樹液で反応を見て行くからね。分かった?」


 モニカは背伸びをしてラルフの眼前へと自身の顔を近づけた。異論は認めないと強い表情をして。


「う、うん。分かったよ」

「では私は一度研究所へと戻るから。また一時間後に」


 そう言ってモニカも病室を出て行ってしまった。


「なんだかな~、ちょっと予想していたのと違ったな」


 ラルフはベッドへと倒れ込む。


「そういうものです、気長に待ちましょう」


 ルーも椅子へと腰を降ろした。

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