第112話 二つの歯車

「ただいま帰りました」

「ルー、おかえり」

「おかえり~」


 居間に帰るとラルフとナナが声を掛ける。この生活もすっかり慣れて来た。


「アドニスさんと食事を取って来たんだろ?どうだった?」

「…えぇ、楽しかったです」


 ルーは必死に取り繕って答えた。だが、


「ん?何かあったのか?ケンカでもしたのか?」


 ラルフはルーの異変にすぐに気が付いた。


「そんな事ありませんよ。仲良くおしゃべりしてきましたよ」


 ラルフは黙ってルーの顔を見ながら、


「…ルーがそう言うならまぁいいさ」


 そう言ってラルフは追及する事を止めた。横に居たナナは「あんな奴と仲良くする必要なんてないわよ」と吐き捨てるように言っていた。

 ルーは何も食べていなかったが今は何も口にするつもりはなく、「疲れたので先に休みます」と2人に言い残し、割り当てられた自室へと向かった。


 夜中、ルーは部屋の窓から夜空を見上げていた。雲一つなく、夜空には星々が輝いていた。しかし今のルーの心の中はそれと正反対の状態だ。

 1人になり、改めて先程の事を思い返す。彼らはラルフの事を何も知らないにも関わらず、決めつけたかのように悪く言う。

 腹立たしさが込み上げる。それはまるで湧き上がる積乱雲のようだ。膨れ上がった感情は重量があり、ひどく胸が重くそして苦しい。

 やはり彼らを許す事は出来ない。今はもう二度と顔も見たくない。


(ラルフが弱いから、ラルフの元を離れてアドニスの仲間になれと?冗談じゃありません!)


 窓ガラスに自身の顔がうっすらと映る。だが顔より短くなった髪の方に目が行った。自慢の長い髪は王女としての立場と決別するために切断した。髪を切った事に未練は微塵もない。それが今の自分はシンシアではなくルーであることの証明なのだから。

 だがここで余計な事を考えてしまった。ラルフとは出会わずシンシアとして生きていたらと。

 シンシアとして生き続けていれば、今もアルフォニア騎士団として活躍していたはずだと。しかし何かの拍子でアルフォニアを出て、1人旅をして、アドニスと出会っていたらどうなっていただろうと勝手に想像を膨らませてしまう。

 何を勝手に想像しているんだと首を振るが、一度始まった想像は簡単に止まる事はない。

 人を疑う事をせず、何でも鵜呑みにしてしまうシンシアはアドニスがどのように見えただろうかと。


(きっと私はアドニスが輝いて見えて、尊敬の念を抱いていたのかもしれません。そして彼の仲間になる事を喜んで承諾したでしょう)


 ルーはシンシアであった頃の自分に幼稚さを感じている。そのためシンシアの思考でアドニスを好意的に捉えてしまう事に嫌悪感を抱いた。

 だが冷静になり、なんでこんな意味の無い事を考えているんだと我に返る。やはりかなり参っているなと自覚する。

 ベッドに潜り、目を瞑る。眠ってしまい、忘れてしまおうと努める。だが一向に眠気はやってこず、寧ろさえて来る。

 ルーはベッドから起き上がる。無償にラルフの顔が見たくなる。

 立ち上がり、こっそりと自室を出て、ラルフの部屋へと向かう。音を立てず忍び足で、そしてゆっくりと部屋のドアを開く。扉を開けると、そこにはベッドの上で壁にもたれかけて眠っているラルフが居た。相変わらず熟睡出来ないような寝方をしている。


「…ルーか?」

「起きていたのですか?」

「いいや、寝ていたさ。でも部屋に誰かが入って来ると分かって目が覚めた」

「ごめんなさい」


 ルーは俯く。ラルフの部屋へ忍び込むなど、やはり今日の自分はどうかしていると。


「元気がないな。やっぱりアドニスさんとケンカしたのか?」

「………」


 ルーは答えない。しかし、この場で否定をしないということは肯定の意味を指している。


「何をケンカしたんだ?俺で良かったら聞くぞ」


 ルーは俯いたまま口を開こうとしない。正確には口にする事が出来なかった。「アドニスにあなたを裏切って自分の仲間になれ」と言われましたと告げたらラルフはどう反応するだろうか?

 ラルフと仲間になったのはアルフォニアを出た時だ。半ば強引について行く形で仲間になった。それはつい先日の事でありまだ日が浅い。しかしそんな中でラルフは自分の事を仲間だと認めてくれた。それははっきりと覚えており、今はそれが拠り所にもなっている。

 だがこの世に絶対などというものがなかなか存在しないように、ラルフが自身の事を仲間と認めてくれている事もまた絶対ではないのだ。

 先程の事実を伝えれば、ラルフからはどんな言葉が返って来るだろうか?お前の好きにしろ…そのような答えが返ってくる気がしてならない。やっとの思いでラルフは心を開いてくれたのに、それがまた閉じてしまう。今の精神が不安定な状態でラルフにも心を閉じられれば立ち直れそうにない。そのためルーは話すわけにはいかなかった。


「…言えないか」


 その言葉にたじろぐルー。ラルフの気分を害してしまったのではないかと。


「あの、私はラルフの事が信用出来ないとかそういう事では無くて——」

「——いいさ、言えない事は誰にだってある。だから別に言わなくていい。俺としてはお前が元気になってくれればそれでいいさ。俺からはそれだけだ」


 そう言うと再び目を瞑るラルフ。


「…ラルフ、普通にベッドに背を付けて寝ないのですか?」


 ルーは気になった事を素直に口にした。ここは家の中であり、身の安全が保障された場所だ。いつ襲われるか分からないスラムではないのだ。それにも関わらず頑なに熟睡出来ない寝方をするラルフが不思議でならない。


「本当は普通に寝ていいんだけど、床に背を付けるとなんだか落ち着かなくて寝られないんだよ。だからこの寝方が一番いいんだ」

「じきになれますよ。普通に寝られるようになれます」

「そうだろうな…でも不安になるんだ」

「不安?」

「あぁ。ベッドに背を付けて深いに眠りに入って…そして目が覚めた時、今の俺が…開拓者になった俺は全部まぼろしだったって事になるんじゃないかって。本当の俺は未だにスラムで泥をすすって生きているような気がして怖いんだ。まぁ今のところは大丈夫そうだけどな」


 ラルフは窓を見ながらしみじみと言った。そしてルーの方へと向き直り、


「お前と出会ったあの日から、俺の人生は何か目まぐるしく変化している気がするよ」

「————!」


 ルーは身が凍る思いがした。しかし、心臓は強く鼓動している。自身の質問で過去の話をされるとは思ってもみなかった。甦る記憶。

 ルーことシンシアがラルフに出会った日。それは残酷な真実を知るはめになった日である。流行病を患い苦しんでいた王妃であるシンシアの母は奇跡の実を口にし、快方に向かう。文字通り奇跡と思われたこの出来事は、実は奇跡でも何でもなかった。現実はスラムに住まう少年の母が口にするはずだった奇跡の実を強奪した非情という名の虚像で作られたものであり、のうのうと生きて来た人間にとってこれは耐え難く、シンシアにとってはこれまでの世界が全て音を立てて割れて崩れ落ちて行くような感覚であった。


「お前は知らなかったにせよ、俺はお前の事を憎んでも仕方のない存在だ」

「…はい」


 確かにシンシアにとっては残酷な真実であった。だが一番辛いのはラルフである。ラルフにとって母を失ってから地獄と言えるような日々が始まったのだ。そんな状態に追い打ちをかけるような真実を知る。助かるはずだった母の命は権力によって奪われた。絶望と憎悪が同時に降りかかったのだ。

 申し訳無さいっぱいのルーの顔を見て、ラルフは慌てて弁明する。


「悪い。今は別に恨んでいる事を言いたいんじゃないんだ。そんな関係だったにも関わらず俺とお前は仲間になったって話だ。だって不思議じゃないか?憎んでいる相手と仲間になるんだぞ?」


 そう言われてルーも考える。先程は同時の事がフラッシュバックした衝撃で何も思わなかったが、改めてそう言われると正にその通りだと感じた。


「そして俺はお前に何度も何度も助けてもらった。現に今もおんぶにだっこだしな」

「そ、そんなことはありません」

「まぁおんぶにだっこって事は今は置いといて、俺は何が言いたいかって言うと、人と出会いは縁だと思うんだけど、お前とは何かその縁以上のものを感じるよ」


 2人が出会ったその日から何かが動き始めた。シンシアという名を捨て、ルーという名をラルフから貰い、共に歩み始めた。二つの歯車は回り始めたのだ。


「俺はな、ルー。根拠は全くないんだけど、この脚が絶対治るって思ってるんだ。俺がこのまま終わるはずないって思っているし、誰かにそう言われている気がするんだ。そしてその治った足で開拓者として活躍するんだ」

「私もそう思います。ラルフの脚は絶対に治ります」


 ラルフはルーの言葉に頷く。


「俺さ、楽しみなんだ。楽しみなんて感情、本当に久しぶりなんだ。それこそ1人で生きて来た日から初めてかもしれない。俺は開拓者として生きていくんだ」


 ラルフの声に熱が入る。ルーはそれを真剣な眼差しで聞く。


「だからお前にはこれからも迷惑を掛けるけど、頼むな、ルー!」

「————!」


 希望に満ちたラルフの笑顔。それが今のルーにとって一番求めていたものであり、答えであった。

 ラルフと共にあると常々思っていたが、アドニスとの言い争いで気持ちが弱っていた。もちろんラルフへの思いは揺るがないものだが、それでも辛い感情は心を蝕む。だがそれも今のラルフのおかげで随分と楽になった。心が軽い。


「…ルー?」


 ルーは気付かぬうちに視線を下げていた。ルーは顔を上げ、ラルフに笑顔を向ける。目には少し涙を浮かべて。


「なんだ、俺がお前に迷惑を掛け過ぎてやっぱり辛いか?」


 ルーは首を横に振る。


「いいえ、私はあなたの仲間です。仲間を助けるのは当たり前の事です。それに私はラルフにいつだって力をもらえていますから」

「俺が?俺がお前に何かしたか?」

「こっちの話です。気にしないで下さい。さぁもう寝ましょう。明日は脚の治療がありますから。夜更けに申し訳ありませんでした」

「元気になって良かったよ。おやすみ、ルー」

「おやすみなさい、ラルフ」


 ルーはラルフの部屋の扉を閉め、自室に戻る。

 ベッドに入り目を瞑りながらアドニスに再び会う事を決めた。

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