8-7
「ねえ赤間くん、キミさっきからそわそわしてるね、うちに帰りたくてしょうがないんでしょう」
唐突に、仁見先生は赤間さんにむかってそう言った。
そわそわ? 赤間さんがさっきから、そわそわしてるって?
あらためて赤間さんを全身上から下まで、まじまじと眺めてみる、だけど私には、そんなふうには見えなかった。
どこからどう見てもそこに立っているのは、静かに落ち着き払ったクールな赤間さんだ、これといった変化はない。
ただ、さっきから口数が少ないかな…くらいは思ってたけど。
でも赤間さんって無駄なおしゃべりはしない人だし。
うーん…と私が首をひねっていると、仁見先生は権蔵のリードを持っていない方の手で、ふりふりと赤間さんへ手を振りながら、さらにとんでもない爆弾発言をさらっと口にする。
「お疲れ様、ひとまずもういいよ。
君はもう、可愛いって評判の、えれんちゃんの待つおうちに帰りなさいよ」
…え、えれんちゃん、って…だれ??
突然飛び出してきた女性の名前に私の心臓はドキッとなる。
なにそれ、おうちで待ってるって…それって赤間さんは、誰か女の人と一緒に暮らしてるっていうこと!?
あわあわと私は挙動不審になりながら、仁見先生と赤間さんを交互に見た。
問題発言をかました仁見先生のようすは特にふざけているわけでもなく普通で、そんな仁見先生を見ている赤間さんの方は、…なんだか少し疲れたような顔をしていた、そんな赤間さんの表情を見るのは初めてだった。
赤間さんはそっと、ため息をひとつ吐く。
「…では、そのようにさせていただきます」
その静かな声の響きもまた、どことなく疲れが混ざっているように私には聞こえて、これまでクールで常に落ち着き払っていた赤間さんが、感情らしきものを滲ませて発したその言葉のせいで、さらに胸が痛くなる。
これまで赤間さんは仁見先生にウザ絡みされても、さらりとクールに言い返したり流したりしていたのに、今回、ため息を吐きながらあっさりとその言葉を認めて正面から受け入れた。
つまりそれは…真実だということだ。
赤間さんには、えれんという名前の可愛い恋人がいて、おうちに一人で待たせている彼女のことが心配だから、いま元気がないんだ…!!
その真実に気がついた途端、さっきまでの私のハッピーな気持ちは宇宙の彼方まで消え去っていって、今では暗黒世界の底にいるような気分でいっぱいだった。
ああ…赤間さん、好きだったのに…。
こんな形で私の恋心が玉砕するなんて…。
ズキズキと重く響く胸の痛みに耐えかねて思わず涙が出そうになりながら、私は腕のなかのステファニーちゃんをぎゅっと抱きしめた。
そしたら、それまでずっと黙っていたステファニーちゃんが「…ぐにゃ〜」って、猫にしてはブタみたいに低い声で鳴いた。
なんとなく、私をなぐさめてくれてるような恐る恐るって感じの鳴き方だった。
そんな私の傷心を知るはずもない赤間さんは、仁見先生から私へと視線を代えると、にっこりと微笑んでくれる、これまでみたいに優しく。
「マナさん、申し訳ありません。
同居人が私の帰りを待っていますので、今夜はこれにて失礼させていただきます。
望むものが見つかって本当によかった、これからはもう何もマナさんが不安に思う出来事は起こらないでしょう。
また日をあらためてご挨拶にうかがいます、それでは」
丁寧な別れの言葉とともに、やはり去り際もスマートに赤間さんは黒いロングコートの裾を翻しながら、そのまま仁見先生の医院の2階から立ち去っていったのだった…。
赤間さんが立ち去りし後には、シェパード犬を連れた仁見先生と、白いデブ猫を抱えた私、二人と二匹が、ぽつんと2階に取り残される。
「じゃ、マナちゃん、私たちも帰ろうか。
権蔵さんとステファニーをうちに帰したあとにマナちゃんも車で送ってあげるから、みんなで車に乗ろう」
「……」
赤間さんには敵わないけれど仁見先生にしては優しい声で、帰ろうよって私に言ってくれた。
だけど、今の私はそれどころじゃない。
「仁見先生の…」
「え?」
「仁見先生の、ばかぁぁーーーっ!!
知ってたんならなんで最初に教えておいてくれなかったんですかぁ! 赤間さんにカノジョがいるって! 教えてくれたならこんな悲しい気持ちにならなかったのにーーっ!」
ほとんど八つ当たりだったけど、なんかもう半泣きで私がそう叫ぶと仁見先生は、気まずそうな、悲しそうな顔をして私を見た。
「はじめに忠告しておいたのに、マナちゃん…やっぱり赤間くんのこと、好きになっちゃってたんだね。
報われることはないから好きになっちゃダメだよって言ったでしょうに…。
あのね、赤間くんに彼女がいるかどうかなんて私は知らないよ、赤間くん自分のこと自分からあんまりしゃべらないし、こっちから尋ねるほどには彼の恋愛事情とか興味ないし」
「だって! さっき仁見先生、赤間さんには可愛い人がいて、おうちで待ってるって!」
振り返って考えてみると、ほんと子供っぽい八つ当たりだったんだけど、八つ当たられてる仁見先生は心底弱ったなぁ…って困り顔をしていたものの、根気よくやさしい声で私に諭してくれた。
「マナちゃんあのね、さっきの、赤間くんちの可愛い…えれんちゃんっていうのはね、彼の小学生の弟くんのことなの」
「え」
「飲み仲間のあいだでは有名な話なんだよ。
あんなカンジしてるくせに赤間くんは、小学生の弟のことを目に入れても痛くないくらいエゲツなく可愛がってるって」
「…妹ではなく?」
「そう、えれんって可愛い名前だけど男の子だって。
ねえマナちゃん、赤間くんが深夜にしか診察に来ない理由分かる? 仕事してる時間以外はぜーんぶ弟の世話にかかりっきりで、弟くんがスヤスヤと眠りについた後の時間だけが、赤間くん個人の自由時間になるからだよ。
それくらい可愛い弟にベッタベタなの、弟が起きてるあいだはひとときも離れたくないくらいに、ブラコンこじらせてんのよ、はじめに言ったでしょう赤間くんはアブナイ男だって」
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