エピローグ

 肌にじっとり汗が滲むようになってきた、七月の上旬。

 土曜日にもかかわらず、僕は教室に来ていた。正午になり、自発的に取り組んでいるマーケティングの勉強をやめて、昇降口へと向かう。

 ほどなくして到着し、校舎の柱に背を預け、電子書籍を読みながら時間を潰す。

 これからいつものメンバーで、学校近くのゲームセンターに遊びに行く予定だ。ボウリングやらカラオケなどができるところがあるらしい。

 数ヶ月前の僕に、放課後友人と遊びに行くぞと言ったとすれば、頭がおかしくなったのかと返されるだろう。実際そうなっているのが、未だに信じられない。

 現地集合でもいいのだが、何だかそれは味気ない。それに、できる限り長い時間、彼女と一緒にいたい気持ちもあったので、僕はこうして高校まで来ているのだ。

 そうして待ち人を待っていると、不意に遠くから声が聞こえる。

「ストーカー!」

 僕はそれを無視して電子書籍に目を落とし続ける。

「今日も泉さん待ってんのかー!」

「迷惑だぞー!」

 しかし何度も呼びかけられるので、僕は流石に顔を上げた。昇降口の隅でひっそりと待つ僕を見て、男の三人組が冷笑を浮かべているのが遠目から分かった。

 彼らとの対話に時間を使うのはもったいないし億劫なのだが、言われっぱなしも癪である。

 それになぜかは不明だが、あの手の輩は言い返そうにもすぐに退散してしまう。

 彼らに逃げられる前に、せめて何かを発言したい。

「そうだよ! 気にかけてくれてありがとう!」

「きもっ!」

「ありがとう、だって!」

 僕が彼らに対応すると、それがおかしかったのか僕のことを嘲笑っている。

 でも、こういう連中って反抗的な態度を取ると逆切れするんだよね。感情のコントロールができないとか、チンパンジーの方が利口なまであるぞ。

「雄輝君!」

 そうしていると、右腕にいきなり何者かが飛びついた。とっさのことで危うくスマホを落としそうになる。

 右腕に感じるのは柔らかな重み、鼻に香るのは整髪剤のよい匂い。

 振り向くと、そこには雪がいた。晴れて恋仲になり、名前で呼び合うような関係となった彼女は、幼気な愛らしい笑顔を僕だけに向けて見上げている。

「びっくりした?」

「スマホ落としそうになるからやめてほしい」

「本音は?」

「今すぐ抱き締めたい」

「素直でよろしい」

 雪は僕の腕にギュッと抱きついて猫のように擦り寄る。

「あんたたちね……学校でイチャイチャするの、慎みなよ」

 背後から沢田さんも姿を現した。呆れた様子で僕らのことを見つめている。

「てか、ほんと、よく耐えられるわね、石野」

 沢田さんはそそくさと退散していった男たちを眺め、そんな感想を呟いた。

 彼らは忌々し気とも、悔しさに歯噛みしているとも取れる複雑な表情で学校を出ていった。

「別に、どうでもいいことだよ。気にしたって意味ないし」

「ほんと、あんなこと言うなんて、最低」

「それを雪が言うか」

 立腹する雪だが、元はと言えば彼女が捏造を流布したのが原因である。現在はこんな感じで仲睦まじい様子を見せつけているので誤解も少しずつ解けているが、まだ勘違いをしている人も多い。

「ごめんね、よしよし」

「許す。めっちゃ許す」

 雪は右手で僕の頭を撫でる。擽ったくて気持ちいい。ずっとしてほしい気分になるし、甘えたい気持ちが湧き上がる。これがバブミという感情か。

「てかゆっきー、本当はストックホルム症候群とかになってない? 大丈夫?」

 沢田さんは心配そうな眼差しで雪を見つめる。

「誘拐も監禁もしてねぇよ」

「あぁ、してたのはストーキングだもんね」

「そっちもしてねぇ……」

 僕は嘆息する。雪は微苦笑を顔に張り付けながら、僕の頭を撫で続ける。

「ふふ、私は本気で雄輝君が大好きだから、大丈夫だよ」

「なんか、最近ゆっきーがやたら甘やかすようになったのも、あんたのせい?」

「僕にそんなフェチはねぇ」

 僕は思わず眉間に皺を寄せる。そもそも雪は元来ポジティブ人間で、昔から誰かを貶さないし、どんなことも褒めてくれる優しさを持っている。それを露骨にするようになっただけだ。

「えへへ、鈴も撫でてやるぞー」

 そう言って僕の頭を撫でるのをやめて、今度は沢田さんの頭を撫でようとする雪だが、身長差があり過ぎて届かない。

「ふんっ」

「ゆっき―、届いてないぞー、頑張れー」

 雪が背筋と腕を伸ばすが、沢田さんも同じように背伸びをして届かない。沢田さんはけらけらと笑う。

「ふんっ!」

「全然届いてなーいーぞー、もっと伸びろ伸びろー、あははは」

「ほい、届いた」

 雪をからかっている沢田さんは、後ろから来た男に頭を撫でられる。

「遅いぞ、隆二」

「悪い」

 僕が窘めると、隆二は朗笑して謝罪する。流石身長百八十センチ超えである。軽々と沢田さんの頭を撫でている。

「ちょ、隆ちゃんっ」

「あははは」

 隆二が頭を優しく撫でてやると、沢田さんはまるでたこのように真っ赤な顔になって、手をどけさせる。

「「……学校でイチャイチャするの、慎みなよ」」

「うるさいなっ! ほら、行くよ!」

 僕と雪が声を揃えて言うと、沢田さんはそう言って、さっさと歩いて昇降口に向かう。

「やっぱ鈴は可愛い」

「俺の彼女だからな、可愛いに決まってる」

 雪と隆二は沢田さんの後ろ姿を見て、微笑みを浮かべている。

「確かに、沢田さんって、いいよな」

「雄輝、てめえその口二度と開けねぇようにしてやるぞ」

「最低」

「どうして……」

 隆二と雪はじとりとゴミに向けるような目で僕を見る。ちょっと対応に落差あり過ぎじゃないですか。

「何してんのー? 早くしろー」

「何で鈴、あんなにはしゃいでんだ。デートの時でも、あそこまで元気じゃないぞ」

「僕と沢田さんの間で裏取引があったからな」

「おい、何だそりゃ」

「雄輝君、隠しごとはなしよ」

 二人からきつい視線を向けられる。

「後で教えてやる。楽しみにしておけ」

 僕の鞄の中には、小、中学生の頃のアルバムが入っている。

 成功報酬としてそれを見せるという約束を果たすだけだが、ここで言うよりちょっともったいぶった方が面白いと思い、そう答えを濁した。

「そうかい、んじゃ、楽しみにしておこう。おーい、鈴、待―てー」

 隆二は沢田さんに駆け寄って、二人並んで歩く。

「行こ」

「あぁ」

 僕も雪の隣に並んで歩を進める。彼女と同じように、背筋を伸ばして歩く。

 これから先、多分全てが上手くいくことなんてないだろう。むしろ失敗の方がずっと多いことが予想される。

 でも、何かを求めて縋ることが、きっとよい明日を作ってくれる。

 自信を持ち、希望を抱き、愛に触れることで、人は成長できる。

 隣に、笑顔を向けてくれる人がいる。

 見たい。見てほしい。

 彼女のその美しい姿を、自分の勇ましい姿を。

 僕はその気持ちがあれば、頑張ろうと、思えるのだ。


                                完

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