第38話

「――って思ってたのに、びっくりしたよ。石野君、生きてるのか死んでるのか分からないような状態になっててさ」

 泉さんはたははと笑って、足をぶらぶらとさせる。

 泉さんのこれまでの経緯を聞いて、言葉を発することができなかった。

 まず、泉さんが図書館に来なくなった理由はよく分かった。誰しも自分の情けない姿は見てほしくないものだ。僕がサッカーを辞めた後、彼女に会おうとしなかったように。つい先週、あのデートの後に彼女から離れようとしたみたいに。

 そしてデートの時に言った、という泉さんの言葉。

 考えはずっと変わってない。自信の持ちようが変わったという意味だったのだ。

「だから……ショックだった。再会できたことは嬉しかったけど、それと同じくらい、私の憧れていた石野君が……いなくて」

 泉さんの悄然とした様子を、僕は黙視する他ない。

 泉さんが努力をしようと思った理由、もう一度サッカーをしようと思った訳、それは全て根底に僕という存在があったからである。

 その事実は単に嬉しかったし、同時に申し訳なさが積もる。

「なら、どうして僕に関わり続けた? 幻滅して、それで終わりでいいじゃないか」

 もし泉さんが幻滅したなら、無理に僕の側にいる必要はない。がっかりしたと縁を切って、とっととサッカーにでも勉強にでも集中すればよかった。それをしなかった理由が単純に気になった。

「そんなの……」

 そう言って、泉さんは押し黙ってしまった。そして一度深呼吸をし、僕に視線を向ける。

「そんなの、期待してたからに決まってるじゃん。石野君だもん」

 今にも泣き出してしまいそうなふてくされた声色で言う。瞳には抗議の色が滲んでいた。

 その言葉から、泉さんにどれほどの信頼を寄せられていたかが、はっきりと理解できた。

「……そっか」

 泉さんは、ずっと僕を求めていたのだ。自信に満ち満ちていた僕を。

 泉さんは、願っていたのだ。僕が前を向いてくれることを。

 そして確信する。僕は泉さんにとって、今なら重要な存在になれると。

「泉さん」

 僕は彼女の側に立つ。泉さんも立ち上がって、僕の顔を見上げる。彼女の顔には、何かを察したような微笑みが湛えられていた。

「僕は、本当に情けないやつだ。泉さんから言われるまで……背中向けて逃げて」

 瞳が潤いそうになるのを必死に堪える。

「僕は、泉さんに憧れていたんだ。自分に自信があって、僕にないものを持っている、そんな、君に。でもそれは、持ってなかったんじゃない。忘れていただけなんだ。思い出そうとしなかっただけなんだ」

 泉さんは小さく頷く。

「本当は、僕にも目標はあるんだ。店をもっとよくしていきたいとか、さ……やりたいことは、泉さんと同じようにあるんだ。けど、自分に自信がなくて、失敗を恐れて、現状維持に甘んじて、踏み出すのを躊躇ってたんだ」

 望みは、リスクを冒さなければ手に入らない。それは頭で分かっていても恐怖が纏わり付いて、僕を雁字搦めにした。

「けど、僕は、そんな弱い自分とちゃんと向き合って――そんな自分を捨てたい。あの時みたいに全力で目的意識持って、行動を起こしていた、僕に戻りたい」

 僕は呼吸を整えて、泉さんの目を真っ直ぐと見つめる。

「泉さんが憧れてくれたような……そんな僕に、なりたい」

 過去の僕、そして今の彼女のような人に、心底なりたい想念であった。

「うん……いいと思う。それでこそ、石野君だ」

「だから!」

 僕は一際大きな声を出した。

 泉さんのその大きくて透き通るような美しさを持つ瞳に見つめ返され、僕の心臓の鼓動はより加速する。

「だから、言わせてほしい。ずっと今が壊れるのが怖くて、言えなかったこと」

 体は震え、喉がカラカラに乾いている。手はひどく汗ばんでいて、背筋が凄まじく寒い。

 だが、そんなものはどうでもいい。言って後悔した方が、百倍マシだ。


「大好きです、泉さんのことが」


 僕は必ず、彼女の耳に届くような声量で伝えた。

 泉さんは、その言葉を聞いて、顔を下に向け俯いた。

 沈黙が、僕らを包み込んだ。

 そして、アスファルトに、少しずつシミが生成されていく。

 それはどんどん多くなっていって、次第に鼻を啜る音が聞こえてくる。

 すると、俯いていた泉さんが、突然の僕の胸に飛び込んだ。

 両腕を僕の背中に回して、強く抱き締める。

 僕も泉さんの背中に手を回し、後頭部を右手で撫でる。

 汗ばんだシャツ越しに感じるのは、僕よりもずっと小さくて華奢な体。サラサラの栗毛に香る整髪剤の甘い匂い。それを感じ取ると、僕の体は急速に熱くなっていく。

 ずっと求めていた彼女の体が僕の手中にある事実は、筆舌に尽くし難い多幸感を与えた。

「…………遅いよ」

 泉さんは、不満げに小さな声で言う。

「ごめん」

「待ってた……ずっと」

「ごめん」

「ずっと、ずっと、待ってた!」

 泉さんは、僕の胸を両手でぽかぽかと叩く。それは物理的には全く痛くない。けど、彼女のことを思うと心が痛かった。

「ごめん……僕が、情けないばかりに……泉さんと、自分と、向き合うことができなかった」

 もう二度と離さないように、僕は泉さんを強く抱いた。

 泉さんは再会した時から、僕を求めていた。あの自信に満ちた僕だけを強く望んでいた。

 それから目を背けていたのは、僕の落ち度だ。変わろうとしなかった僕を、彼女は自分の姿を見せることで、変えようと試みてくれていたのだ。

「僕は変わりたい。君のように」

 僕は頬を伝って滴り落ちる泉さんの涙を指で拭き取る。泣きはらした瞳は少し赤くて、同じように頬も朱に染まっていた。

「うん……その目、その目だよ……私の会いたかった、石野君」

 泉さんは目を細めて微笑んだ。

 抱き寄せると、泉さんの胸の鼓動を感じ取ることができる。僕の心臓も激しく脈打っており、それは彼女に伝わっているだろう。

 泉さんは拒むことなく、僕を受け入れてくれる。それが堪らなく喜ばしい。

 泉さんへの愛おしさに胸が潰れそうだ。培った言葉の全てが失せて、ただ彼女の体のみを貪欲に強く求めて仕方がない。

 泉さんは僕の胸に顔を埋めて、服が千切れるのではないかと不安になるほどの力で僕を抱く。

「僕……もう、逃げないよ……絶対に君の元から離れない」

「……私もごめんね……何と言うか、不器用で」

「近付けないためにストーカーにしたりね」

「それは、もう、本当にごめんなさい」

 泉さんは申し訳なさそうに目を逸らす。

 僕は泉さんの頭の上に右手を置いて撫でる。艶のある髪の毛に触れていると、手が擽ったくて心地よい。

「いいよ。ちょうどいい試練だった。泉さんの側にいられないつらさを、感じれたしさ」

 僕がそう言うと、泉さんは柔らかい笑みを浮かべた。

 僕は泉さんの耳元に唇を近づけて囁く。

「改めて……よろしくお願いします……雪」

「…………名前」

 泉さんは目を丸くして僕を見上げる。

「嫌、だった?」

「ううん。どうにかなっちゃいそうなくらい……嬉しい」

 僕が問うと、泉さんは頭を振ってそう言った。

 泉さんが告白をオーケーしてくれたならば、彼女の名を呼ぼうと考えていたのだ。

 名前呼びは、僕らの関係の大きな変化を表す。

 僕らは、共に過去の僕らではない。

 自分という存在に失望し、見えない不安に怯えて立ち竦んでいた僕らではない。

 これは、そんな新しい自分たちを示す、最適な形だと思うのだ。

「よろしくお願いします……雄輝君」

 泉さんは気恥ずかしそうに、僕の名を呼んだ。

 体に、熱が帯びる。心臓の鼓動がより速くなる。

 彼女から発せられた言葉に、脳が溶けてしまいそうなほど強烈な幸福感が湧き上がる。

 勇気を出してよかったと、そう心の底から、思える。

 そうして僕らは、果てしなく広がる空の下で、新しい一歩を踏み出すことを誓い合った。

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