第37話 過去編 中学二年の雪

 翌週の日曜日。石野君の試合の日だ。

 彼は今頃、復帰できたことに喜びを噛み締めながら、ボールを蹴っていることだろう。

 そんな中、私は用事のあった母に買い物を頼まれ、練習が休みだった冬美と一緒に、近くのスーパーに来ていた。

「ねぇ、冬美?」

「んー?」

「最近、練習してる? というかできてる?」

 その帰り道、私は何気なく訊いた。グラウンドをどれだけ雪かきしてもまたすぐに積もるので、この時期は基本的に室内練習が多くなる。

 だが、最近の冬美には怠惰な印象を受けた。少なくとも、先週見た日からリフティングをしているのを見ていないし、体幹トレーニングもサボりがちになっている。

「まあまあかな。面倒なんだよね」

「面倒って……頑張りなよ、みんな期待してくれてるんだから」

 私はつまらなそうに言う冬美に、少し苛立ちを感じた。

「いや、勝手に期待されても困るんだよねー。私は好きでやってるだけで、別に活躍したいとか、そんなのないし」

 冬美は怠そうにそう言って、食料の入ったエコバッグを肩にかけ直す。

「そう言えば、中学上がる前にさ、明心めいしんに進学したらどうかとか言われたんだよね。てか、スカウトされた……って、あれ? 言ってなかったっけ?」

「それって、あの、明心?」

 女子でサッカーをする者で、その高校を知らないものはいない。静岡にある明心高校は、高校女子サッカーで最強と評される中高一貫の名門女子高だ。そんなところから彼女がオファーを受けていたなど初耳だった。

「そう。けどさー、別にそこまでして本気でサッカーやりたい訳じゃないしー、家で動画見たりしてる方が楽しいし、断ったんだよねー」

 あくび交じりに言った冬美の言葉に、私は言いようのない寂寥感を覚える。悔しさに歯を食い縛るとぎしぎしと痛む。

 私は冬美に憤りと羨望を感じていた。私だったら首を何度も縦に振って、そこへと意気揚々に向かっただろう。そして、両親が私にサッカーを辞めさせたかった理由として、彼女の進学費用の捻出という思惑もあったのかもしれないと悟る。

 もちろん、無力な自分が一番悪いのだ。だから責めるべきは自分なのだ。

 でも、羨むような力を持っていて、その力をお菓子の包装紙のように気軽に捨てられる冬美が堪らなく憎かった。


 私は中学二年の夏から継続的に勉強をする日々を続けていた。図書館には通わなくなり、塾の自習室に遅くまで籠る毎日だ。

 そして、時期は既に三年の夏であり、よくここまで継続できていると自分を褒めたい。

 とは言っても、当たり前のことをやらなければいけないからやっているだけで、そこに労いや感動などないけれども。

「ただいまー」

「――私は行かない!」

 そうして疲労を感じながら午後九時頃に帰宅すると、リビングから冬美の大きな怒声が聞こえた。取り乱して甲高くなっていることから、あまりいい話が行われていないのが窺えた。

「だけど、冬美、こんなチャンス滅多にないよ。二回もオファーをくれるなんて、異例中の異例だって言ってたし」

 私は閉じられたドアの近くに立って、聞き耳を立てた。母の諭すような優しげな声音には、ひどく不安そうだった。

 冬美も私同様、既に中学三年生である。会話の内容から察するに、彼女の元にまた明心高校からオファーが来たようだ。

「そんなん知らねぇよ! 前例がないからやっとけって理由はおかしいでしょ! 私、人生かけてまでサッカーしたいとか思ってねぇし! 友達と普通の高校行きたいんだよ!」

 ドンと机を叩く音が聞こえた。

 そして大きな足音が幾度かした後、リビングのドアが開かれる。

「っ! びっくりした……おかえり」

「ただいま」

 冬美は壁にもたれていた私を見て、少し身を捩らせた。

「冬美は、やりたくないんだね」

 自室に駆け足で戻ろうとする冬美に、私はそう呟いた。

「当たり前でしょ、好きでやってただけだし。選手権で優勝とか、日本代表とか、そんな目標ないし、馬鹿みたい」

 冬美は吐き捨てるように、私の掲げていた目標を言う。

「羨ましいよ、雪が、サッカー辞めれて」

 そう冬美は言い残して、自室に引っ込んでしまった。

 私は言いようのない虚無感を抱えながら自室に戻って机と向き合い、解き切れなかった数学の問いに取りかかった。


 結局、冬美は周りの反対を押し切る形でサッカークラブを退団し、高校は偏差値五十程度の公立高校に入学した。

 私は当然のことながら、この市で最も偏差値の高い大栄高校への進学を難なく突破した。両親はそのことを心の底から喜んでくれた。

 合格した日の夕食後、私はかねてより考えていたことを両親に話した。

「私、大栄の女子サッカー部に入りたい」

 そこで、二人にはっきりと伝えた。

 大栄高校の合格という目標を達成した暁には、もう一度、サッカーにチャレンジしたいと思っていたのだ。

 私の言葉に、両親は眉間に皺を寄せた。

「何で、また」

「大栄高校は文武両道を重んじているし、今の世の中、頭がいいだけで評価される訳じゃない。仮に部活動で大きな活躍ができなかったとしても、スポーツに取り組んでいたことそれ自体が、就職の時に評価される傾向もある。勉強も一緒に頑張れているなら尚更だよ」

 父の疑問にそう反論した。全てネットの情報からの受け売りなので、実際に企業がそういう姿勢を評価するかは分からない。だが、勉強も運動も全力ですることは、必ず財産になる。

「できるのか?」

 父は懐疑的な視線を向けるのは無理ない。一度はあっさりとサッカーから身を引いた人間だ。その印象が拭いきれないのだろう。大栄高校への合格だって、勉強だけに熱心に取り組んできたからできたとも言える。

 だが、私の意志は石より硬いし、岩より強固だ。

 絶対の自信を、彼のように付けたい。その大事な第一歩目なのだ。

「できる。絶対にできる」

 力強くそう言うと、両親は私の顔を見て深く頷いた。

 その頷きは、あの時のような沈痛なものではない。娘の成長を喜ばしく思うものであった。

 そうして大栄高校に入学してからは、本当に毎日が充実していた。

 朝早くから学校に行き、部活のある日は時間ギリギリまでサッカーに取り組み、勉強だって手を抜かない……いや、勉強はちょっと手を抜いたとこあったけど。

 そうして毎日の課題に弛まず取り組んでいると、全てではなくても多くのことがよい方向にいくのがひしひしと実感できた。

 特にサッカーは、昔に比べて格段に上手くなった。実力のある先輩方や同い年の鈴の刺激もあったのは幸運だった。レベルの高い人たちとの競争は、私を強くしてくれた。

 互いに話し合い、修正点を改善し、自分をより高めていく。それをできる限り休まずに、継続的に行う。

 そうして地道に目標にひた走って努力を重ねていたら、いつの間にか一目置かれる存在になっていた。みんなが褒めてくれることが嬉しくて、もっと褒められたくて、更に自分に磨きをかける。そんな充足感に満ちた日々を過ごせていた。

 石野君が自信を持てた理由は、そこにあるのだろう。自分を知り、その力を信じて突き進むことが、成功への最短の道であることを知っていたのだ。

 彼は、どこで何をしているだろうか。まだこの市にいるのだろうか。大栄高校の男子サッカー部は地区予選突破すればラッキーのレベルなので、全国制覇を目指すほどの強豪ではないから、志の高い彼はここにはいないかもしれない。

 でも、同じ市で生まれて生きた人間だ。またどこかで会う機会はあるかもしれない。

 彼なら自分を信じて、サッカーに直向きに取り組んでいるのだろう。

 ひたすらに夢を懸命に追い続けているだろう。

 そんな石野君のことを思うと、自分も頑張ろうと思える。仮に再会した時に、自信のない弱い私を絶対に見てほしくない。

 だから、私は何事にも全力で取り組むのだ。彼のようになりたいから。

 そして再会したら言うんだ。あなたに会えたから、私は強くなれたよって。

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