第36話 過去編 中学二年の雪

 私が思っていた以上に、石野君との出会いはよかったことだと思う。

 石野君はとても苦しい状況のはずなのに、復帰までの道のりをしっかり計画していて、そのためにどんな努力も惜しまない。

 サッカーについてアドバイスをくれたり、苦手な勉強も教えてあげたりして、互いを補完するみたいに私たちは一緒にいた。まあ、サッカーに関しては聞いても意味のないことだけど。

 本当はもっと話したいという思いがあって、連絡先も訊きたいと思っていたけれど、もしかしたら失礼なんじゃないか、図書館以外では話す必要はないと思っているかもと感じて、ずっと訊き出すことができなかった。

 そして夏休みが終わると、私は両親との約束通りサッカーを辞めた。夏休みから通い始めた塾での勉強に本腰を入れ、より勉学に注力する日々が始まった。

 でも、石野君にはサッカーを辞めたことは伝えなかった。そうしないと、何となく彼の隣にいることが許されない気がした。サッカーは私たちを繋ぐ一つのツールのようなものであり、それがなければ、私が彼の近くにいる意味はないように思えたのだ。

 そうして冬になって、石野君と駅での別れ際、今でも克明に思い出せるあの出来事。

「あのさ、泉さん。もしよければだけど、来週の日曜日の復帰戦、観に来てくれないか? 多分、途中出場になるかもしれないけど」

 石野君はそう私に提案した。練習の様子を毎週聞いていて、その努力を知っているからこそ、復帰までこぎつけたのは自分のことのように嬉しかったし、羨ましかったし、悔しかった。

 私が押し黙っていると、石野君は焦ったように頬を掻く。

「いや、ごめん、無理にとは言わないよ。休日だし……」

「いやっ、行きたくない訳じゃないんだよ! むしろ、行きたいって思ってるよ!」

 石野君が申し訳なさそうな顔をしたので、私はとっさにそう言った。それは紛れもない本心であった。

「でも……石野君が頑張ってきたのは知ってるし、純粋に凄いなって思う。やっと試合に出れるくらいになって、私も本当に嬉しいし、プレーしてるとこを観たい。だから、もし監督さんが出さなかったら、何で出さないんだーって思うし、絶対にムカつくと思う」

 それは本心じゃない。もし、石野君が活き活きとプレーをしている姿を見たら、自分は情けない存在なんだって責められているように感じるからだ。

「だからね、もし石野君の試合を観に行くなら、ちゃんとスタメンを取り返して、安心できるようになったら観たいかな。その方が、よくない? ダメかな?」

 そんなのは取って付けたような適当な理由だ。復帰するのが現実味を帯びて、初対面の時よりずっと明るくなった石野君を見て、隣にいてはいけない気持ちが掻き立てられたのだ。

「そうだな。絶対その方がいい。どうせ、試合を観れるチャンスは、いくらでもあるんだし」

 石野君の顔はとても寂しそうで、やるせない気持ちが胸に込み上げる。

「ごめんね……試合、頑張ってね」

「あぁ、出られたら、だけどな。じゃ、またね」

 私はそうして立ち去ろうとした。だが、彼に訊いてみたいことがふと思い付く。

「ねぇ、石野君」

 石野君を呼び止めると、彼は怪訝な表情で振り向いた。

「石野君は、どうして頑張れるの?」

 彼の姿を見て、私はあまりにも口惜しい気持ちを感じて唇を噛み締める。

 酸っぱい血の味がして、とっさにマフラーで顔の下半分を隠した。

 そして石野君は、私の顔を見て迷いのなく発言した。

「自分の力を、信じているからかな」

 それは恐らく、彼にとっては何でもない発言なのだろう。

 でも、それは私にとっては、雪よりもずっと冷たい鋭利な刃物のようだった。

 心臓に、それで刺されたような強烈な痛みが走る。

「そっか。かっこいいー! じゃ、またね!」

 私は努めて明るくそう言って、駆け足で改札を抜ける。

 彼にそういう信念があることは素直にかっこいいと感じたし、自分を信じれていることが羨ましいと心底思う。

 そして私の姿をその信念に照らし合わせると、真逆の存在だと自覚させられる。

 涙が止まらない。どうしても止まってくれない。

 ダムが決壊したみたいな滂沱は、私の両目を痛くして、頰を冷たく湿らせる。

 自分を信じれない私は、ひどく弱くて情けない存在である。

 こんな惨めな人間が、彼の側にいてはいけないのだ。

 その日以降、私は石野君の前から消えることを決心した。


 帰宅すると、家の庭で冬美がリフティングをしていた。足にはまるでボールに粘着テープが貼ってあるのかと思うくらい、ぴったりとくっ付く。

「ただいま」

「ん。おかえりー」

 冬美は私の方を見た。そして高く蹴り上げたボールを全く視界に入れずにトラップした。顔には自分でも驚いたような微笑みが湛えられていた。

 私はそれから目を背け、すぐに自室に籠ってベッドに横たわる。目頭にまだ熱いものを感じながら、そのままゆっくり眠りに落ちた。

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