第33話

 少し走ると、公園の入り口に到着する。僕は長い坂を懸命に上っていく。

 しかし中間まで上がったところで、流石に息を切らした。中学の時は一人だったので難なく上がれたし、毎日のトレーニングも欠かさなかったので苦ではなかった。

 だが、今は体育の授業以外で運動はしないし、泉さんが荷台に乗っているということも相まって、僕の足は中々前に進まない。

「自転車の方が早いんじゃなかったの?」

 泉さんは肩で息をする僕を見て嘲笑する。速度も遅いのでもうしっかり掴まる必要はないのだが、彼女は腰に回した腕を緩めることはなかった。

「やっぱり、ここからは歩こう……思った以上に……かなり……重い」

「あっ! 女の子にそれは失礼なんじゃないかなー。もう絶対降りないもんねー」

 泉さんはより強く抱き締めて、僕を決して降りさせようとしない。

 彼女の体がよりつぶさに背中に感じられて、ひどくもどかしい気持ちになる。

「じゃあ……せめて歩かせてくれ、これ以上は、まずい」

「仕方ないなぁ……ちゃんと運動しなきゃダメだよ」

 泉さんが拘束を解いたので、僕は自転車を押して歩く。非常に歩き易くなったが、それはそれで少し残念である。もう少し彼女を感じていたかったと思うのは、男の悪しき性だろう。

 そうしてやっと頂上に到着する。車は駐車スペースに一台も停まっていない。というより、何度もここに足を運んでいるが、人がいるのを数えるほどしか見たことがない。そんな穴場だからこそ、お気に入りスポットなのだが。

 僕は自転車を適当な場所に停めて、泉さんの手を握る。

 泉さんはそれを振り払ったりはせず、力強く握り返した。

 僕と泉さんは並んで階段を上がる。

 少し開けた場所に出ると、風が強く吹き肌を撫で、髪をさらりと靡かせた。

「わぁ……」

 泉さんは瞠目し、感嘆の声を漏らした。快晴の空の下には、壮観な光景が広がっている。

 大海が陽光で鮮やかに輝いている。右手に見えるのは真っ白で壮大な大橋、左手にはコンビナートが煙をごうごうと立ち上らせていた。

 僕もここに来たのは数年振りだが、そこは何一つ変わっていなかった。

「いい眺めだね」

「だろう? 何かに悩んだ時、ここによく来てたんだ。景色もいいし、人も来ないから」

 僕は泉さんの手を離し、景色に見惚れる彼女を見る。真っ直ぐな瞳は儚げで綺麗だった。

「ここで……サッカーを辞めることを決めたんだ」

 僕は過去と向き合うために、そしてあの頃の自分を思い出すために、あえてここに来た。

 ここでなければ、僕の復活は成し得ないのだ。

「泉さん、僕のサッカーを辞めた理由は、怪我以外にもあるんじゃないかって、訊いたよね?」

「うん、一緒に勉強会した時」

「……僕が、泉さんに試合を観に来てほしいって言ったこと、覚えてる?」

「うん、覚えてる。よく覚えてる。昨日の夕飯は覚えてないのに」

「僕も忘れてないよ。今日の朝食すら思い出せないのにね」

 そんな軽い冗談を交えると、ふと心が軽くなった。

「僕、復帰戦に大きなミスを犯したんだ」

「ミス?」

「……簡単に言うと、失点に直結するパスミスして……しかも二回。その上、チームメイトの言うこと聞かずに独断でプレーして、三つの失点に関与した」

 当時の景色は、未だに頭にこびり付いている。どんなに忘れようと思っても、忘れることは不可能だった。

「二対〇でリードしてたのに、僕が入ったせいで、逆転負けしたんだ」

 泉さんは黙って僕の話に耳を傾けていた。

「その試合の後、チームメイトが僕のことを……いや、まあ、何となく察してくれ」

 僕が苦笑いを浮かべるが、泉さんは愁いの表情のままであった。自分がミスをした時、仲間から責任を押し付けられる強烈な苦しみが彼女に分かるかは不明だが、想像に難くないだろう。

「そこで、僕はダメになったんだ。怪我は完治した。プレーもできた。だけど……怖かった。あんなに自分の信じていた足が全く使い物にならなくて、焦って、取り乱して、自分が自分じゃなくなっていって。過剰な自信が……僕を壊したんだ」

 できると信じていたからこそ、できなかった時の反動が大きかった。

 そこで、最初から自信を持たなければそうして自分に失望することもないし、何事からも目を逸らすことができた。それが正解だと思ったのだ。

「それが、僕のサッカーを辞めた、大きな理由なんだ」

「……ありがと、話してくれて」

「まだ終わりじゃない。というより、ここからが本題だ」

 僕は泉さんの方を向く。彼女は景色を眺めるばかりで、僕のことは見向きもしない。

「サッカーを辞めること、当時、ちゃんと泉さんに伝えたかったんだ」

「……うん」

「けど、泉さんは、図書館に来なくなった」

「うん」

「……来てくれると思ってた。だから、僕はずっと図書館に通って待ってた。けど、泉さんは来なかった。受験とかもあって、僕も次第に図書館に行かなくなった。大栄に入学してからは、週一くらいの頻度で行ったけど、結局そこでは一度も会えなかった」

「うん」

「でも、まあ、それでよかったとも思ってるんだよね。今よりもずっと落ちぶれていた僕を見られなかったし」

 僕は快活に笑うが、泉さんは目を伏せたままだ。

「……ただ、会いたいと思えば、恐らく色んなルートを辿って泉さんに会えたはずだし、サッカーを辞めると一言報告できた。でも、僕はそれをしなかった。自分の弱さと向き合うことができなくて、結果的に泉さんから逃げた。それでいいと思ってしまった。でもやっぱり、それに後悔もしてる」

 あの時、泉さんに伝える手段はいくらでもあった。女子サッカークラブはこんな田舎には片手で数えられるくらい少ないだろうから、練習場所を調べて行くこともできた。

 そもそも泉さんの通う学校は制服から分かっていたし、そこに向かうことだってできた。今の時代、それなりの労力をかけず、彼女に会うことは可能だっただろう。

 けど、そうしたことをしなかったのは、あの時の自分を見てほしくなかったからだ。目的を失って屍のようになった自分を、泉さんだからこそ、見てほしくなかったのだ。

 サッカーを辞めることを伝えなければいけないという思いより、その気持ちがまさったのだ。

「そこで、一つ疑問があるんだ……教えてほしい。どうして泉さんが、僕と会おうとしなかったのかを。どうして、日曜日、図書館に来なくなったかを」

 僕が泉さんに会おうとすれば会えるのと同じように、彼女もまた、僕に会おうと思えば会えただろう。

 けれど、泉さんもそうはしなかった。

 図書館に何度も足を運んだが、結局、彼女とそこで出会うことはなくなった。

 今まで毎週欠かさず図書館に来ていたのに、僕の試合の前週を最後に、二度と訪れなくなるのは不自然だと感じたのだ。

 泉さんは数秒間、じっと黙っていた。

 泉さんは深呼吸を一つしてから、近くにある円柱に腰かけた。

「話すと、長くなるよ」

「終わらないなら、ここで日没を迎えてもいい。何なら日の出でもいいぞ」

「そんなにかかんないよ」

 泉さんは微笑を浮かべ、どこまでも長く続く水平線を眺める。

 その双眸は、ここではない過ぎてしまった景色を見ているように思えた。

「石野君も、話してくれたもんね……私も……ちゃんと、話さなきゃね」

 泉さんは口角を少し上げ、静かに過去を語り出す。

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