最終章 なりたいもの

第27話

 帰宅して、悶々とした気持ちに駆られていた。

 母に今週は仕事を手伝う気分になれないと伝えると、「そうかー。ま、女の子なんて星の数ほどいるから、大丈夫」と、意味不明な励ましを受けたが、それに言葉を返す気力はなかった。

 自室に来て、ベッドにいるソラを半ば無理やり片手でどかし、うつ伏せに倒れて枕に顔を埋める。

 ひっかき攻撃や猫パンチを甘んじて受け入れようと思っていたが、ソラは僕の頭にすり寄るだけだった。今はその優しさが、抉られた傷の痛みを増幅させた。

 僕は、泉さんの言わんとすることはよく分かっていた。

 泉さんが、僕を求めていることも、ずっと気付いていた。

 でも、彼女が求めている僕は、僕ではない。それはあの時、消えた僕なのだ。

 もう二度とよみがえることのない、失われた石野雄輝。

 彼に戻ることは不可能だ。自信に満ちていた故の失敗は、僕を長く停滞させている。

 だが、あれほどサッカーに関わるのが嫌だと思っていたにもかかわらず、泉さんにそれについて何度も問うたり、話したりしたのか。

 泉さんや隆二の存在を拒まず、受け入れて元の関係を望んだのか。

 ずっと、泉さんが活き活きとプレーしている様子を観たら、自分が相対的に何でもないやつだと𠮟責させられているように思えるから、彼女のプレーを観たくなかった。

 けど実際に観て、沸き起こった感情は、彼女のようになりたいという願いだけだった。


 そう、心のどこかでは、あの頃のような自分に戻りたいと願っているのだ。


 けど、僕は何一つ行動に移してなんかいない。

 ずっと前からホワイトライトの景観や内装を変えたいと思っているし、商品の質だって向上させたい。経営学やコミュニケーションについて研究して、店の環境を今よりもよくしていきたいと考えている。

 でも、上手くいかないのではないかと思うと、いつの間にか何もできなくなっていて、現状維持ばかりで踏み出すことを恐れている。

 それができないのは、自分に自信がないからだ。

 自分の力を、信じることができないからだ。

 そしてそれは僕にとって、何よりも大事だったものだったはずだ。

「あぁ……そうか……」

 僕は仰向けになって、虚空を見つめた。

 泉さんの発言の意味が、やっと分かった。

 どうしてあの瞬間、胸が疼いたのか。

 凄くシンプルで、元々持っていたものだからだ。

 僕は、踏み出さなきゃいけないんだ。

 泉さんにも、何より自分自身にも。

 ベッドから起き上がり自室を出て、母の元に行く。

 店内では、主婦が井戸端会議に花を咲かせている。

 そんな中、母は紫煙をくゆらせながら、テレビをぼーっと眺めていた。

「母さん」

「ん? 何、手伝う気になったの?」

「いや、できれば今週は休みたい。あと訊きたいんだけど、僕のアルバムって残ってる?」

 母はそんな問いに驚く様子もなく、おでこをコツコツと指で叩いて考える。

「……あぁ、思い出した。あそこだ。寝室の、押し入れの上のとこの、棚のとこ。そこ」

「分かった。ありがとう」

「何で急にそんなもの?」

「必要だから」

「あっそ。なら、捨てんでよかったわ」

 母はタバコを吸って、またテレビに目線を戻した。

 僕は父と母の使う一階の寝室に行く。

 押し入れを開けると、上段にダンボールが並べられていた。

 それらの一つに、僕の名前が書かれたシールの貼ってあるものを見つける。

 ずっしりとした重みのあるダンボールを取り出して、両手で大事に抱えながら自室へと運ぶ。

 床に置いて中身を開くと、まず目に映ったのはアルバムであった。

 中学卒業時のものであるそれは、あるものの上にあった。

「捨てんでよかった……か」

 思わず笑いが込み上げる。

 アルバムの下に積み重なっていたのは、僕が捨てたスパイクの数々であった。白や黒、青や赤といった様々なカラーのサイズの異なるスパイクが、箱いっぱいに敷き詰められていた。どれもひもが切れていたり、表面が削れていたりしており、あまりよい状態ではない。

 母は、僕が捨てると言った時からずっと、こうして保存してくれていたのだ。

 そこには歩んできた歴史がある。

 噛み締めた喜びも、つらくほろ苦い思い出も、それらには凝縮されているのだ。

 そうして履き潰されたスパイクを見ていると、あの頃の自分がどうだったか、沸々と思い出してくる。

 覚悟を決めて、僕は立ち上がった。

 もう、後悔はしたくない。

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