第26話

 僕らはカフェを出てから、水族館近くのバス停に行く。

 夕暮れに染まる空が、頭上に広がっていた。

 終始無言で一緒にバスを待っていた。

「今日はありがとね。私のために、わざわざ時間を使ってくれて」

「大丈夫だよ。僕は、とても楽しかった」

「私も、楽しかった……何か、ごめんね、ちょっとしんみりしちゃって」

「喜び爆発しながら帰られたら、ある意味そっちの方がショックを受ける」

 そんな冗談に、泉さんは微笑んだ。彼女の笑顔を見るといつも喜ばしくて堪らない気持ちになるが、今はそうではなかった。

「僕……泉さんが羨ましいよ」

「羨ましい?」

 僕がぼそりとそんな言葉を漏らすと、泉さんは怪訝な表情で小首を傾げる。

「中学の頃から、ずっとそう。自分に自信があって、勉強も運動もできて、人望もあって」

「そんなこと……ないよ」

 泉さんは僕の声量が小さいからだろうか、小さく低い声で否定する。

「ご謙遜を…………それでさ、何となく思っちゃうんだよね。そんな泉さんの側に、僕がいてもいいのかなーって」

 僕はひび割れたタイルをじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。

「泉さんは、僕に、何と言うか、期待……みたいなのをしてくれてるのかもしれないけど、僕は、ほら、こんなだし……何と言うか、悪影響にしかならないし、ほら、僕みたいのとつるんでいるよりも、こう、もっと、ね、時間の使い方を考えるべきというか」

「どうしてそんなこと言うの?」

 泉さんの問いで、僕は途切れ途切れに紡いでいた言葉を、喉の奥に引っ込めた。

 泉さんは、僕をじっと見上げていた。

 少しだけ湿り気を帯びた瞳は、僕の顔だけをしっかりと見据えている。

 僕は彼女に自分の姿を見られたくなくて、とっさに顔を背ける。指は所在なさ気に忙しなく動き、その場で何となくじっとしていられない。

「それは、ほら、泉さんを慮って」

「私を思いやっているつもりなら……それは間違ってるよ」

 泉さんは、明らかに憤りを込めた強い口調でそう言った。

 泉さんは怒鳴ったりはしないが、今にも燃え上りそうに揺らめいている怒りの炎を、無理やり押さえつけているように思えた。

「私が、何を求めているか、分からない?」

「生憎、僕はエスパーじゃない」

「……そうだね」

 泉さんは小さく呟いて、ため息をついた。

「今のは、私の訊き方が悪かった……だから、はっきり言うよ」

 バスが、ゆっくりとこちらに向かって走ってくる。

「石野君がそのままでいるなら、確かに……私の側にいない方がいいね」

 心臓に、無理やり鷲掴みにされたような強烈な痛みが走る。

 泉さんのその言葉は重く圧しかかる。それを言われることを予期して身構えてはいたが、実際に発言された時の鈍い痛みは、そんな予防線など関係なく、僕の心身を突き抜けた。

 何かを言いたいが、何一つ言葉は浮かばない。

 餌を求めて飛ぶカモメの鳴き声や、駆け出した子供が地面に転ぶ音が、やたら大きく聞こえた。そのくらい僕らの沈黙は、深いものであった。

 やがてバスが到着する。ドアが開いたことにより、無機質な空気の流れる音が耳に届く。

 それは、泉さんを今日という日から遠くへと追いやる合図だ。

「私は……ずっと待ってた……だから、ずっと石野君といたのに……石野君は変わってくれない。前に、進もうとしてくれない。いたくないなら、いなくてもいいと思う。そのままなら、もう近付いてほしくないし、近付かせたくない」

 金属の擦れる音が聞こえる。泉さんが足をタラップにかけたのだろう。

 僕はその様子を見ることができず、ただじっと地面を見つめる。

「今だって、追いかけようとしていない。その足は、何のためにあるの?」

 明らかに苛立ちを宿した、責め立てるような声音。

 そうして自分の両足を意識させられると、今度はそれを見たくなくて顔を上げる。

「これからもそうやって、向き合うことに恐れて生きてくんだね」

 泉さんの失望と寂寥が滲む表情を見て、僕の唇は自然と戦慄いていた。

「今日はありがとね、デート、楽しかったよ!」

 泉さんがそう言うと、バスの扉が閉まる。

 バスはエンジンの音を響かせて、駅へと向かってのろのろと走っていった。

 僕は下を向いて、それを眺めることすら不可能であった。

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