第22話

 帰宅後、いつものように店の手伝いをしていると、午後六時半頃に泉さんが来店した。

「やほほー」

「いらっしゃいませ……何名様でしょうか?」

 僕は泉さんが今日も来てくれたことが嬉しくて、頬が緩む。

 だが、それが無性に気恥ずかしくて、無表情を装う。

「どうしてそんなに忌々し気な顔するの? ほら、笑顔笑顔」

 泉さんは口端を人差し指で上げて笑顔を作る。かなり上機嫌なのが窺える。その愛くるしい仕草と柔らかい笑みを見て、頬がひどく熱くなるのを感じる。

「はいはい。で、何名ですか?」

「一人ですよー。残念ながら、お一人ですよー。いつものとこでいいですか?」

「はい。構いませんよ」

「ふふっ、やっぱり敬語使ってると変な感じ」

 泉さんは笑ってカウンター席に腰かける。彼女が僕の接客対応に違和感を覚えるのは、それだけ友人として良好な関係であることを意味していた。

 泉さんはカウンター席に座り、メニュー表を手に取って眺める。

「あれ? 雪ちゃん来てるじゃない」

 そうしていると、厨房から現れた母が驚きの声を上げる。

「ニュースで見たわよ、優勝したの! おめでとう!」

「えへへ……ありがとうございます」

 母は泉さんの隣の席に座って、肩を軽く叩く。泉さんは照れくさそうにはにかんだ。

「そうだ。せっかく頑張ったんだから、今日はタダでいいよ」

 母が他の客に聞こえないように耳打ちする。

「そ、そんなの悪いですよ!」

 泉さんは両手を振って拒否する。心優しい彼女はそういったことに後ろめたさを感じるのだろう。もしここに沢田さんがいたら、保存している材料が根こそぎ胃袋へと向かい、経営破綻の足音が聞こえるに違いない。

「いいのよ。どうせ代金は雄輝の小遣いから引くし」

「母さん?」

「そうですか。なら、お言葉に甘えたいと思います」

「何でだよ」

 勝手に僕が泉さんに料理を奢ることになったのは頂けない。ただでさえ毎週コーヒーをサービスしているのに。

「冗談冗談。でも、料金がいらないのは本当。息子と仲よくしてくれる子にはとことん尽くす母なのよ。雄輝と、これからも仲よくしてあげてね」

 泉さんは微笑を顔に張り付けて頷いた。

 母はテーブル席にいる客の声がかかったので、注文を取りに向かった。

「……はぁ、何かすまないな」

「ううん、大丈夫。いいお母さんで、ちょっと羨ましい」

 泉さんは、数あるメニューの中からオムライスを注文した。

 約十分後、僕は父が作ったふわふわのオムライスを泉さんの前に持っていく。

「お待たせ致しました」

「ありがとう。頂きます」

 包まれている卵にスプーンを入れると、中からとろりと黄色い半熟の卵がケチャップライスに垂れる。

 それを口に運ぶと、泉さんはすぐに飲み込んだ。彼女のスプーンを持つ手は止まらない。お腹が減っていたのか、終始無言でオムライスを食していた。

 それを食べ終わるのを見て、僕は泉さんにブレンドコーヒーを出す。

「コーヒーは基本料金変わらずセットで付くんだ」

「凄い太っ腹。普段からおかわりも自由だし」

「ここまでしないと、残念ながら客は来ないんだ……」

 ホワイトライトは一番近い駅からバスでニ十分の場所にある。その上、過疎化が進む町のこぢんまりとした喫茶店だ。

 しかも海沿いには海原を一望できるカフェテリアが幾つかあるので、こちらに足を運ぶ人はかなり少ない。最大の敵は立地条件であった。

 その欠点を補うためにも、手厚いサービスをしている。けれど客足は中々伸びない。労力を考えたら、海沿いのカフェに行くのは致し方のないことだ。

 本日も幸か不幸か客入りはそれほどない。接客に時間を取られることもなさそうだと思ったので、僕は自分用のコーヒーを淹れて、泉さんの前に座った。

「打ち上げとか、みんなでしないのか? 試合後に」

「もちろんしたよ。ただ、途中で抜けてきちゃった。石野君に、会いたいと思ったから」

 泉さんのストレートな言い方に、僕は照れくさくなってそっぽを向いた。その言葉に深い意味はないのだろうが。

「……かっこよかった、ゴール」

「……ありがとう」

 僕は先ほどの言葉を気にしないように努め、端的にそう伝える。

 泉さんは頬をほんのりと紅潮させ、両手でゆっくりコーヒーを啜る。

「ゴールだけじゃない。本当に、色々」

「ざっくりした感想」

「悪い、語彙力がなさ過ぎて」

 とは言っても、僕はこれでも一週間に五、六冊程度は読書をする人間なので、一般人よりははるかに語彙は有している。

 ただ、本当に感動したことがあった時、頭の中から言葉とは消失するものだ。

「同点に追い付かれた時、負けるなって思ったんだ」

「最後まで応援ありがとう」

「あぁ、違う。この試合に敗北するだろうって意味。負けるだろうなってこと」

 はっきりとそう言うと、泉さんは微笑みから一転、ムスッとした表情になって唇を尖らせる。

「ひどい」

「一瞬だよ。一瞬だけだ」

 一瞬かと言われればそうではない。延長戦まで観るだろうという考えも頭の片隅にあったし、戦況から敗北を想定することはおかしな話ではないだろう。

「このまま逆転されて終わるだろうって思ったのに、勝ち越してさ……びっくりした」

 僕は率直に泉さんに感想を伝える。大栄高校の選手たちの真剣な眼差し、足腰の踏ん張り、そして眩しい笑顔。何かを求めて戦う彼女たちの姿は本当に美しかった。

「あの時、どうして攻めようってなったんだ?」

 僕は泉さんにアディショナルタイムのことを問う。あの状況下でどうして攻めに出ようと考えたのかが、非常に気になっていた。

「……みんな迷ってたよ、どうするか。このままのスコアで延長にいければ御の字だろうって言った人もいたし、監督もそう言ってた」

 泉さんは今日のことなのに、遠い昔の話を思い出すように訥々と語る。

「けど、結果的に攻めに出たな」

「うん。守って相手のペースに乗ったら絶対に負ける……って、私が言ったの」

「ミスした直後に?」

「うん」

「そうか。強いな……泉さんは」

 僕は自分が同じようにミスをした時、泉さんのように前を向けなかった。しかも味方や監督に対して反論するなんて、強靭なメンタルも持ち合わせていなかった。

 だから、純粋に泉さんを尊敬するし、羨ましいと思う。

 僕にないものを、泉さんは持っている。強さ、自信、信念、希望。そうした確固たるものを持っている彼女を見て、僕は心のどこかで一抹の寂しさを感じる。

「そりゃね、何言ってんだって感じの空気はあったよ。けど、みんなも監督も同意してくれた。その結果勝てたし、本当に、ホッとしてる」

 チームメイトや監督が泉さんの提案に同調したのは、やはり絶対的な信頼があるからに他ならないと思う。それはあの場面でミスした程度で、揺らぐことはないのだ。

 泉さんの力量と、過ごした時間がそれを支えている。

「泉さんが言うなら……みたいなこともあったろうね。多分、入部二週間の一年生が同じことを言っても、誰も耳を傾けないよ」

 人は大抵の場合、何を誰が言ったかよりも、誰が何を言ったかの方が重視する傾向があるように思われる。

 僕だって中学の時、プレーに文句を言ったのが偶然試合を観ていた通りすがりの中年男性だったら気にも留めなかったろう。

「私、そんなに信頼されてるかな?」

「されてるよ。それは結果が証明してる」

「まあ、それなら、嬉しいけど」

 僕がはっきりそう言うと、泉さんは擽ったそうに頬を掻いた。

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