第21話

 今日一番の歓喜の声が湧き上がった。

 僅か二分間での同点劇、驚嘆しない者はこの会場には存在しなかった。

 僕はこの光景に見覚えがあった。

 忘れるはずもない、サッカーから身を引くことを決めた試合と似た展開である。

「うわー! やられた……危険なスコアだったもんな……」

 隆二は大栄高校の失点にがっくりと肩を落とす。

 僕もオーバーリアクションをしないだけで、非常に落胆していた。

 サッカーでは、二対〇は危険なスコアともっぱら言われている。ファンの間でそれを知らないものなどいない。

 二対〇の状況で一点を取れると、同点にできるとやる気が上がる。同点にできると、逆転できると尚更勢いづく。

 そうしてモチベーションがリードされていた側に傾き、逆転をされる可能性が高まるのだ。

 つまり、リードしているが油断ができないという意味で、二対〇のことを『危険なスコア』と呼ぶようになった。

 僕の引退試合もまさに、その状況と酷似していた。

 大栄高校イレブンは、まさかの状況に流石に動揺の色を隠せない。

 特に、泉さんは顔から血の気が失せていた。自身の判断ミスからボールを奪われてしまい、それが同点弾に直結した。責任を感じざるを得ないだろう。

 泉さんの狙いとしては、投げやりなクリアをして相手にボールを渡してしまうよりも、もう一度自分たちのペースに試合を戻した方がいいと考え、キープを選択したのだろう。

 しかし、それが仇になった。味方は完全にクリアをするものだと仮定しているので、パスを受ける準備はできていなかった。

 このピッチの上で、泉さんだけが、繋ぐことを意識したプレーだったのだ。

 そして、その齟齬が失点を招いた。

 大栄高校の選手と監督がどういう戦術を取るか、僕はどぎまぎした思いで眺めていた。

 この局面、恐らく文清学園は逆転弾を狙いにいくのは目に見えている。勝敗が決しない場合はニ十分の延長戦になるので、このままの勢いを殺さず、試合を後半で終わらせたいはずだ。

 大栄高校は選手交代をし、かつすぐにポジションに戻らないことで、わざと試合の再開を遅らせる。チームで円を作ってまとまり、忙しなく話し合っている。

 スコアは二対二。

 熱狂と興奮、緊張と期待、不安が綯交ぜになった空気の中、試合再開の笛が鳴り響く。

 会場のボルテージは非常に高く、双方の応援団は力を振り絞ってチャントを送る。保護者は祈るような眼差しで選手たちを後押しする。

 そして、大栄高校がとった戦術は、引かないことだった。彼女たちは延長戦をする気など毛頭ないといった様子で、最終ラインを上げてゴールを奪いにいく戦法をとった。

 僕は、その選択に仰天した。

 今の状況、それは非常にリスキーだ。試合の流れは完全に文清学園にあり、いつ失点してもおかしくない。そんな中で勝ち越し弾を狙うのは、愚かとしか言いようがない。

 両チームは縦パスをこれでもかと入れ、積極果敢にゴールを目指してひた走る。

 アディショナルタイムは三分と示され、会場の熱気が増していく。サッカーでは、三分もあれば一点を取ることは不可能ではない。

 大栄高校のCBの4番が文清学園の9番からボールを奪い、泉さんに繋げた。

 あのようなミスをしてもパスをもらえる泉さんを、純粋に羨ましいと感じた。このような全幅の信頼を置かれる理由は、単にスキルがあるからだけではないのだろう。

 泉さんは7番にボールを渡す。大栄高校の選手たちは一気に前線へと上がっていく。

 しかし文清学園の選手の戻りも早く、すぐにブロックを形成した。

 パスの出しどころがなくなった7番は、致し方なく前に上がってきた泉さんにパスを送る。

 時間はもう殆どない。

 無理に攻めず、このまま延長戦に持ち込むことも視野に入れてよいだろう。

 無理に攻めれば、間違いなく負ける。

 僕はそう思ったが、泉さんは違ったようだ。彼女はドリブルで駆け上がり、寄せてきた相手のボランチを軽やかに抜き去り、中央突破を図る。

 僕は、無謀なそのプレーに嘆息した。

 泉さんは冷静ではない。過去の僕と同じように、何とかミスを取り返さなければならないという思いに駆られ、正常な判断ができていないのだ。

 相手のディフェンスの人数は多く、ドリブルで掻い潜ることは難しい。

 泉さんの前には三人のディフェンスが並んでいた。沢田さんが裏を取る動きをし、CBの真ん中の選手がそれをカバーする。

 泉さんはそれを確認すると、ボールを蹴り出して、ドリブルで切り込んでいく。

 ペナルティエリアに入れさせまいとCBの一人が距離を詰める。

 そこに、先ほど泉に突破されたボランチの選手が後ろからスライディングを仕かけた。

(まずい!)

 直感した。その光景はあまりにもあの時に酷似していて、喉と心臓がキュッと締め付けられるように痛む。

 だが、泉さんがボールを取られることはなかった。

 スライディングを察知していたのか、ボールをふんわりと浮かせてジャンプして躱した。

 挟み込んだ二人の選手の間を抜けて、完全にフリーの状態になった。

 そのあまりに美しいプレーを見て、無意識的に僕の口角は上がる。


 まるで女神が舞い降りたようであった。


 空中に浮かんだボールとゴールの位置を見て、泉さんは思い切って右足を振り抜いた。

 強く放たれたボールはディフェンスの間隙を抜け、ゴールへ一直線に進んでいく。

 GKは、それを眺めることしかできず、棒立ちになった。

 ボールはクロスバーを叩き、乾いた音を鳴らす。

 ゴール右上の隅から落下して――ネットへと突き刺さった。

 泉さんがグッと右拳を天に掲げると、文清学園のゴールの時以上の歓声が上がった。

 大栄高校応援団は黄色い歓声を上げ、互いにハイタッチする。保護者もみな思わず椅子から腰を上げ、両拳を握り締めた。

 ゴールを決めた泉さんに、チームメイトが駆け寄った。

 次から次へと選手が抱き合うので、バランス崩して一斉に倒れる。

 彼女たちの瞳は涙ぐみ、滴る汗が陽光でキラキラと輝いていた。

「おー! すげぇかっけぇ! やばいな! 泉さんのミドル!」

「あぁ……そうだな」

 隣に立つ隆二が僕の肩を激しく揺する。

 それが不愉快に思わないくらい、僕は半ば放心状態だった。

 決めた時間帯と状況、シュートの技術、判断、全てが素晴らしいものであった。

 恐らく、GKが目いっぱい飛んだとしても、ボールに手が届くことはなかっただろう。それほど素晴らしいコースに入った。

 そして、試合終了を告げる笛が吹かれた。

 レフェリーは状況と時間を考え、試合を再開させなかった。

 スコアは三対二。まさに劇的な勝利であった。

 喜びを爆発させる大栄高校と、意気消沈して蹲る文清学園の選手がひどく対照的であった。

 勝った方も負けた方も号泣し、抱き合い、慰め合い、健闘を称え合っている。それはとても美しい光景であるが、同時に残酷でもある。

 両チームは握手を済ませると、まずは互いのベンチにメンバー全員で挨拶をする。審判団にも同様に礼をした後、観客席に向かって歩いてくる。

 相手チームの応援団と保護者に挨拶し、割れんばかりの拍手を受ける。

 そしてそれらを全て慇懃に行った後、自分たちのチームの保護者と応援団の元へと向かう。

 歓声と拍手をいっぱいに受けて、女子サッカー部一同は満面の笑みで礼をした。

 僕が泉さんを何気なく見つめていると、泉さんは腕を伸ばしてサムズアップした。どうやら僕の居場所に気付いたようだ。

 隣にいる沢田さんは泉さんの肩を抱き、大きくこちらに向けて手を振った。隣にいる隆二もそれに笑顔で手を振り返している。

 僕は地面に置いておいたリュックを背負う。

「じゃあな、隆二」

「何だ、もう帰っちまうのか? 泉さんと会わなくていいのか?」

 隆二は目を丸くしてそう問うた。恐らく泉さんはいつも通り店に来るだろうから、無理に会う必要がないので帰るのだが、何となく言いたくなくて黙っておいた。

「あぁ、別に」

「そうか。またな」

「……またな」

 僕はそう言って隆二と別れ、落ちないようにゆっくりと階段を踏み締める。

 隆二から「またな」という別れの言葉を言われたことに、今は非常に違和感を覚えた。ずっと言われなかったその言葉は、明らかに僕らの精神的距離の縮まりを表していたからだ。

 僕は記念撮影をする大栄高校女子サッカー部を横目に、興奮冷めやらぬ会場を後にした。

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