第19話
制服姿の彼は僕と同様鉄柵に寄りかかり、大栄高校のベンチの様子を眺める。
「……あぁ、男子の方はベスト8で負けたんだったな」
大栄高校男子サッカー部は、インターハイ予選を準々決勝で敗退した。女子のトーナメント表を見た際、男子の方も偶然見たのだ。今日はこの女子の試合の終了後、男子の決勝戦が行われる。
「そういうことだ。俺らを負かしたチームが決勝まで進んだし、観に来ようと思ってな」
「本音は?」
「鈴の応援」
「それはご苦労なことだな」
どうせそんなことだろうと思っていた。中川はプロでもない男の試合をわざわざ観に来るようなやつではない。
「てか石野、鈴と知り合いだったのか?」
中川がふと僕に問う。恐らく、沢田さんがホワイトライトに来店したことを伝え、僕のことを二人の間で話したのだろう。
「ん……あぁ、中川に内緒で、お前の愛しの彼女に、ミルクを出しただけだ」
「言い方に凄まじい悪意があるな……」
中川は僕の言葉に苦笑した。
「……で、中川、何でまだいるんだ?」
僕の隣を離れる気配のない中川を不思議に思ってそう問う。
「いいじゃないか、別に。俺、ウサギさんだから誰かと一緒にいないと寂しくて死んじゃう」
「確かに、中川は年中発情期だから、そうなんだろうな」
僕がため息交じりに突っ込むと、中川は愉快そうに笑った。猿になったり、ウサギになったりご苦労なことである。次はカメにでもなるのか。
「…………俺さ、お前がまたこうしてサッカーに関わってくれて、嬉しいよ」
中川は破顔した表情から一転、その瞳に影を落とした。
「石野が……サッカー辞めた時さ、俺、どうしていいか分からなかったんだ」
中川は訥々と独り言のように語り出す。スタジアムにこだまする愉快そうな声が急に遠くに感じられて、彼の声を聞くためだけに感覚が研ぎ澄まされる。
「あの試合……石野がサッカーを辞めた試合。あの後、俺、お前に声をかけることができなかった」
中川は唇を噛み締めて、組んだ両手を強く握り締める。
僕は黙って次の中川の言葉を待った。覚悟を持って僕と向き合おうとしているのが読み取れたので、茶化すことなくただ黙っていた。
「加藤とか熊野が、あいつはもういらないって言って……俺、本当は否定したかったんだ。でも、ちょっとでも思ったんだ……石野がいたら困るって」
中川がそう思うのは、僕も理解できる。もし目も当てられないプレーを続けるような選手が仮にチームいたなら、僕も排斥に加わっていたかもしれない。
「でも、おかしいだろ。失点をしたことは、石野のせいだけじゃない。けど……俺はそう言えなかった。否定して、チームの雰囲気が悪くなって最後の大会に臨むくらいなら、今のままでいいんじゃないかって……一瞬でも考えちまったし、結果的にそうなっちまった」
「そうか」
中川の声はひどく震えていた。当時、自分が少しでもそう考えたことに対する怒りと悔しさがあるのだろう。
「だから、今言っても遅いかもしれないし、俺の自己満足にしかならんと思う。だけど、ちゃんと言わせてくれ……本当にすまなかった」
中川は深々とお辞儀をして、謝罪の言葉を述べた。彼の大きな体躯が、やけに小さく見えた。
中川の謝罪は確かに、今聞いても意味のないことだし、彼の自己満足にしかならない。それをあの時言ってくれていれば、僕は考えを変えることができたかもしれない。
「……いいよ、別に。でも、せっかくだから後半が終わるまでその姿勢でいてくれ」
「無理だ……背骨が死ぬ……お前みたいなチビになっちまう」
「おい、聞き捨てならないな。これでも百七十センチあるんだぞ」
僕はそう抗議をした。だが実は、四月の健康診断で百六十七センチだったことは伏せておく。三センチの差異くらいできれば大目に見てほしい。というか高校生の内に伸びてほしい。
中川は愉快そうに笑って顔を上げ、僕の姿を見下ろした。
仮に僕がサッカーを続けていたとしても、恐らくあの時、泉さんと会うことはできなかっただろうし、原動力を失えばどこかで気持ちが途切れていただろう。
現実は異世界転生チートハーレム小説のように甘くはない。
どんなに願っても、過去を変えることはできない。そうポジティブに考える他ない。
「なぁ、俺、石野って呼ぶのやめていいか?」
「はぁ?」
中川は唐突にそんなことを言うので、素っ頓狂な声が漏れた。
「俺さ、下の名前で呼び合って、何にも考えずに友人やってた、あの頃に戻りたいんだ。お前とちゃんと向き合えてないのに、馴れ馴れしくするのは……何かこう、嫌だったんだ」
そんな中川の願いに、僕は失笑する。中川が僕の名前を呼ばないことに、そんな縛りを設けていたことがおかしく思ったからだ。
「ダメか……?」
「ダメだ」
「マジか」
「その手の下の名前呼びイベントは、ラノベとかでは女の子とするのが定石だからだ」
「は?」
「いいか、下の名前を呼ぶってことは、それだけ関係の進展を表すんだ。そして大抵の場合、物語の重要な場面で行うものなんだ。それを男とやったってな、読者で喜ぶやつはいない」
「ははっ、何言ってんだ、お前?」
中川は僕の頭がおかしくなったと思っているのか、嘲るような視線を向ける。
「もし僕を物語の主人公と仮定するなら、名前で呼び合うイベントが起こるのは女の子がいいし、女の子だけでいい」
下の名前で呼ぶようになるのは、非常に胸がすくだろう。平時、名字呼びだった女の子が下の名前で呼んでくれるようになった暁には、途轍もない喜びと温もりに心身が包まれるだろう。
だから、僕は中川に呼ばれるなら名字で十分だ。名前で呼ばれたい他人は、僕の中でただ一人である。
「そっか、分かったよ……雄輝」
「おいやめろ」
「俺は話せて嬉しいよ、雄輝と」
「やめろぉ! 僕の名を呼ぶなぁ!」
「バトルものの鬱っぽい主人公になってるぞ」
僕は両耳を塞いだが、しっかりと中川の笑い声が聞こえる。
「ま、冗談はこのくらいにして……僕は一向に構わないよ。隆二」
「おう、ありがとな」
中川もとい隆二は、僕の髪の毛をくしゃくしゃと子供にするように撫でる。手汗でびっしょりだったことから、彼がひどく緊張をしていたことが分かった。
「やめろ、せっかくセットしたのに」
「ぼさぼさヘアーもそんなに悪くないぞ。俺よりはかっこよくないけど」
「うるせぇ」
「俺よりはかっこよくないけど」
「なぜ二回言った」
十分間のインターバルが終わり、両チームの選手たちがベンチで円陣を組み、気合いを入れる。
そして、選手たちが前半と逆のエンドにわらわらと戻ってくる。
もう一度後半のメンバーのみで円陣を組み、ハイタッチをする。
後半は共にメンバー変更はないようであった。
彼女たちが全国に進めるかどうかが、この残り三十五分で決まる。勝負の世界だから仕方のないことだが、やはりどちらかしか本戦に出場できないのは残念だ。
双方の応援団がチャントを熱唱する中、後半開始の笛が鳴らされた。
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