第15話

 泉さんが椅子に座り、僕はその後ろで家庭教師のように彼女に勉強を教えた。

 苦手科目としているのは英語のようで、僕はまず文法の基礎知識からおさらいさせ、重要な単語を覚えるように伝えた。テストをクリアするくらいなら、この程度で大丈夫だろう。

 国語は問題文の読み方を講じ、接続詞や設問文の言い換えなど、楽に覚えられてかつ点数に直結するコツを教えた。日本史は時代の流れをつぶさに見て、前のページからリンクするところに印を付けて、何度も復習するべきだと伝えた。

 泉さんは成績上位を目指すというよりも、赤点を回避するための勉強を目的としているので、及第点が取れれば十分だ。理系はてんでダメということはなさそうなので、特に教えることはなかった。断じて、僕が教えられない訳ではない。

 二時間程度みっちり勉強すると、体に適度な疲労が圧しかかる。

 僕は自室にチーズケーキとオレンジジュースを用意し、休憩がてらそれを二人で食べた。

「ごちそうさまー。あー、五臓六腑に染み渡るー。満腹、至福、豆大福」

「豆大福」

 僕は泉さんのその言葉に笑みがこぼれる。

「はっ……私、声に出てた?」

「自覚なかったのか。本だしかつお節とか、以心伝心長針短針とか」

「あー、待って、恥ずかしい。やばい」

 泉さんは紅潮した頬を両手で隠す。特に恥ずかしがるようなことでもないと思うが。

「……ねぇ? ベッドに寝転んでいい?」

「い、いいけど」

 許可すると、泉さんはブレザーを脱いで、パサリと体を毛布に預けた。真横にいるソラを持ち上げて、自分のお腹の上に持ってきて、優しく頭を撫でている。

 その無防備な姿に少し胸が高鳴る。泉さんが足をパタパタとバタ足のように動かすと、スカートはひらひらと上がったり下がったりを繰り返す。裾は膝下なので下着が見えることはないが、ほんの少しだけ覗く太ともが妙に艶めかしい。

「ねぇ、石野君」

「ん?」

 泉さんは天井を見つめながら、ふと僕の名を呼ぶ。

「石野君が辞めた理由ってさ……本当にパフォーマンスが戻らなかったから?」

 泉さんは唐突に放った言葉は、僕の胸に矢のように刺さり、チクリと痛みを与える。

「……そうだよ」

「私、考えたんだけど、そうは思えないんだよね。あの石野君が、そんなことで辞めちゃうのかなって」

 泉さんがそういう疑問を感じるのは、無理のないことであった。

 厳しいリハビリを乗り越え、将来へのルートも細かく考えていた人間が、全てをかなぐり捨て、若くしてサッカーを辞めるなんて考えられないのだろう。

「私、ずっと石野君の部屋に、来たかったんだよ。どんな感じなのか、見たかったの」

 泉さんはぽつぽつと、一つ一つの言葉をゆっくりと丁寧に喋る。

「……やっぱり、サッカーに関するものが、何一つないんだなって」

 泉さんはむくりと起き上がり、壁に背中を預ける。伸ばした両足の上でソラがあくびをした。

 確かに、僕の部屋には一つもサッカーに関するものはない。サッカー書籍も、スパイクも、ポスターも、サッカーボールもだ。そういったものは全て処分してしまった。

「それで、何となく分かる。ただ辞めただけなら、もっと、何かしらあってもいいでしょ? だから……もっと何か、嫌いになるくらい、深い理由があるんじゃないかって」

「深読みだよ」

 僕は泉さんの予測を冷たくあしらった。自分でも思っている以上に低い声色になっていたことに驚く。

「あ……ごめん」

 僕はきつい態度になっていたことをとっさに謝罪する。

「ううん、いいの。ごめんね、急にこんな話して」

 泉さんは謝罪し、微笑みを浮かべた。だが、その瞳は未だ愁いを帯びていた。

「うん、今のことは全部忘れよう! 今日のことも全部忘れよう!」

 泉さんは大きな声を出して、快活に手を叩く。ソラはそれにびっくりしたのか、泉さんの両足から飛び降りて、一階へと向かって走っていった。

「いや、勉強したこと忘れちゃまずいだろ」

「あ、それもそっか」

 泉さんは照れくさそうに笑って、立ち上がった。

 そうして午後六時頃まで二人で勉強をした後、泉さんはバスで帰っていった。

 僕は泉さんの乗車したバスを見送る中、歩道で立ち尽くしていた。彼女は再会してから初めて、僕の中に踏み込もうとした。

 それは僕にとって、少し、悩ましいものであった。

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