第14話

 その日以降、土曜日の部活終わりにホワイトライトに訪れるのが、泉さんのルーティーンとなった。

 僕らは会うことの叶わなかった約二年を埋めるように、会話を重ねていった。高校でのサッカーのことや勉強のことなどだ。

 そうして僕らは、あの頃の感覚を少しずつ取り戻していった。

 泉さんは学校ではいつも友人に囲まれているようで、中々僕と会う時間はない。放課後も部活に精を出してしまうし、僕も店番のためにすぐ帰宅してしまうので話す機会もない。

 もっと会話を重ねたいという思いは、少なからず僕の胸に潜んでいた。

 しかし泉さんの側にいることが難しいし、友人に割く時間の方がずっと大事だろうと思い、積極的に関わることはしなかった。

 月日は流れて、五月に入った。

 まだ気温の上昇は見られない。冬と比べると圧倒的に過ごし易くはなっているが、それでも半袖で生活するのは避けたいくらいである。

 GWは店の稼ぎ時なので、もちろん無休で働いている。

 稼ぎ時なのだが、相も変わらず客はいない。連休の昼過ぎに、わざわざこんなうらぶれた喫茶店に訪れようというマニアックな客はいない。

「やほー」

 ドアのベルがカランコロンと鳴って、マニアックな客が訪れた。

 泉さんは相変わらず制服姿であった。そう言えば、中学時代から彼女の私服を見たことがないなと思った。

「いらっしゃいませ」

「ちょっと、ちょっと、石野君。まずいよ」

「……コーヒー、結構頑張って作ってるんだけど」

 僕は泉さんから入店早々誹謗中傷を受けたことに、驚きと失望を感じる。

「いやコーヒーの味がまずいんじゃなくて、中間テストだよ」

「あー、もうそんな時期か」

 もうすぐGWも終わりを告げる。そうすればすぐに中間テストが訪れる。

「で、何がまずいんだ?」

「いやいや、何がまずいって……石野君は、勉強大丈夫?」

「いや、してないよ」

「よかった……仲間がいた」

「だって、勉強は基本的に毎日するものであって、テストの前だけではなく継続的に取り組むことが常識で」

「待って、石野君。それ以上言わないで。脳が破壊される」

 泉さんは机に突っ伏して両耳を塞ぐ。

 この反応から察するに、どうやらテスト勉強を一切やっていないようだ。

「……というか、泉さんは文武両道のイメージがあったんだが」

 中学時代、泉さんはサッカーも勉強も双方しっかり取り組んでいると感じていたし、実際そうだったのだろう。今の彼女を見ると、その影もない。

「それは……まあ、あったんだよ、私も」

 泉さんは、そう言ってそっぽを向いた。

 だが、暗澹な表情をすぐに仕舞い、勢いよく立ち上がる。

「そうだ! 石野君、勉強教えてよ!」

「……何で? 別に教えてもいいけど、僕、そんなに成績いい方じゃないぞ」

「ちなみに……一年の期末の順位は?」

「全体で三十位とか。国語は一位だった」

「ぐはっ」

 泉さんはまた机に力なく突っ伏した。

 決して嘘はついていない。僕より上に二十九人の生徒が存在するのだ。それに国語はできても理系はからっきしである。七百人の生徒を抱える我が高校の中では、確かに高い方かもしれないけれど。

「よし、思い立った日が吉日! 勉強する!」

 泉さんは鞄から英語や数学の教科書を取り出し、カウンターの上にどっさりと置く。

「そうか。頑張れ」

 僕はそう励ましの言葉を送って、もう一度読書に取りかかった。

 そして五分後、山積みの教科書を枕に、泉さんは睡眠を取ろうとしていた。

 僕は読んでいた文庫本に栞を挟んで閉じる。それで泉さんの頭を優しく叩いた。

「はっ!?」

「はっ、じゃねぇよ。まだ五分しかやってないぞ。この手のくだりはもう少し時間が経過してからだろう」

 僕はまだ意識が混濁する泉さんを見て嘆息する。

「いや、こう、背中を丸めなきゃいけないから、ちょい痛いんだよね。私、勉強は背筋ピンでやるタイプだから」

 泉さんはそう言って腰を摩り、ランドセルのCMの子役のように、真っ直ぐ背筋を伸ばす。

 確かに、ホワイトライトのカウンター席は背もたれのない丸椅子なので、勉強にはあまり適していない。

 テーブル席はカウンター席よりマシかもしれないが、座席は動かすことのできないソファである。こちらも背筋をしっかり伸ばして勉強することは難しい。

「そうか。じゃあ、僕の部屋でやるか?」

 僕は純粋な善意、泉さんを心の底から慮って、そんな提案をした。

「……え」

「……ん?」

 そして、僕は自分の発言が、とてもまずいことのように思えてくる。

 というか、かなりまずいことだ。それは泉さんの放心から読み取れる。

 今しがたの発言は、女の子を、男である僕の自室に招き入れるということである。泉さんが驚いて不信がるのも当然であった。

「いや、違うんだ……他意はなくて、あの、本当に」

 僕は口元を右手で隠し、視線を逸らした。無意識的に泉さんを部屋に連れ込もうとしていたのが、ひどく恐ろしい。

「ねぇ」

 泉さんが僕を呼びかける。どんな罵詈雑言でも甘んじて受け入れようと覚悟をする。

「行ってもいい? 石野君の部屋」

 泉さんは柔らかく笑って、そう問うた。まさかの発言に、今度は僕が放心する番であった。

「勉強するだけでしょ。それに、その方がやり易いと思って、提案してくれたんでしょ?」

「それは、紛うことなく」

「じゃあ、お言葉に甘えようと思う」

 泉さんは教科書類を鞄に仕舞って立ち上がる。

「ほら、連れてってくれるんじゃないの?」

「いいのか?」

「うん」

 泉さんは何ら問題なさそうな顔で頷く。

 僕は泉さんのその様子に、一抹の不安を感じる。

 僕が泉さんに自分の嫌がるようなことはしないだろうと信頼されているのか。

 それとも二人でいることにどぎまぎとした思いをしたりしないからなのか。

 それは分からないが、僕としては複雑な心情である。

「というか……石野君のご両親、いるよね?」

「あ、あぁ、うん。父さんは厨房にいるし、母さんは、多分リビングにいる」

「なのに、石野君は私に、そういうことする?」

「あぁ、そうか」

 泉さんはからかうように笑って、僕に訊いてきた。僕は泉さんが部屋に行こうと思える理由を納得する。

 確かに両親がすぐ近くにいる環境下で、僕は彼女にはしたない行いはしない。もちろん、友人関係の相手に対して不純な行為をすることは断じてしないが。

「そうだね。行こうか。店番は母さんに代わってもらうよ」

 僕はそう結論を出し、ホワイトライトの出入り口から出た。

 そこからほんの少し坂を上る。自宅の玄関前に来て、鍵を開けてからドアを開く。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 泉さんに入るように促すと、彼女はペコリとお辞儀をしてから、靴を脱いで上がり框に足をかける。

「そこの階段から二階に上がって」

「その前に、石野君のご両親に挨拶しなきゃ」

「いいよ、そんなことしなくて。父さん一応仕事中だし。客いないけど」

「じゃあ、お母様だけでも」

「……分かった」

 泉さんが頑なにそう言うので、僕は仕方なく承諾する。泉さんが母と話しているのを見ると体がムズムズするからやめてほしいが。

 僕らがリビングに行くと、母がドラマをソファに寝転がりながら退屈そうに眺めていた。

「母さん」

「うわっ!? 何!? もう、びっくりした……え、幽霊?」

 母さんは僕が突然店側ではなく玄関側から姿を現したので、ひどく驚嘆したようだった。

「本物だよ。勝手に殺すな」

「あんた、店は?」

「そのことなんだけど、店番、代わってくれない? 今、泉さんが来てて、部屋で一緒に勉強するから」

「……今泉さんって、あんたその年で二股かけてんの?」

「今! 泉さんが! 来てるから! それに、泉さんとは付き合ってないし」

「こんにちは、お母様。勝手にお邪魔してすみません」

 泉さんが僕の後ろから姿を現し、母にそう告げる。

「あら、いらっしゃい」

「お茶とかも僕が用意するから。とにかく、母さんは店番頼む」

「にひひ、何の勉強するのかな?」

「テストに向けた勉強に決まってんだろ」

「はー、そうですか、そうですか……あー、どっこいしょー、どっこいしょー」

 母はソーラン節のリズムを口ずさみながら、気怠そうにソファから起き上がった。

「じゃあ、お願い」

 僕と泉さんは廊下に戻り、階段を上がって二階へいく。

「僕の机でやろう」

 僕の部屋は、少なくとも誰かを常に招き入れても問題ない程度には片付いている。特段、泉さんに見られて困るものもないだろう。

「どうぞ」

 僕がそうして泉さんを自室に入るよう促すと、彼女はボーっとした表情で眺める。

「本の数、凄いね」

 僕の部屋の棚には、大量の本が敷き詰められている。文学やライトノベル、漫画などの読み物が殆どだ。

 現在は図書館で借りたもの以外は電子書籍で読むことが殆どであり、それらは中学時代のものだ。その時期少しでもスマホに触れたくなくて、気を紛らわせるためにありたけの読み物を購入して読み耽っていたのだった。

「うん、まあね」

「……あっ、あっ、い、石野君、石野君。あれは、あの、あの毛玉は」

 泉さんはコミュ障の人のようにどもり、瞬きを繰り返す。

 その視線の先には、僕のベッドの上で寝そべるソラがいる。今日も今日とて、図々しい面持ちでそこにいる。そう言えば、この猫の存在を忘れていた。

「あぁ、名前はソラって言うんだ」

「ソラちゃん」

「オスだぞ」

「ソラきゅん」

「きゅんって」

 泉さんは少しずつソラに接近していく。触りたくて仕方なさそうなのが、その表情からよく分かる。

「……勉強するんじゃなかったのか?」

「一回だけ……一回だけ撫でさせてぇ。そうしないと、やる気でない……」

「まあ、好きにしたらいいんじゃないか」

「やったね」

 泉さんはソラの胴体に両手を乗せる。わしゃわしゃと撫で回すが、ソラは気持ちよさそうに目を瞑ってじっとしている。僕が撫でようとすると大抵逃げるのだが、どうやら泉さんの場合は逃げないようだ。

「柔らかい……ふかふか……」

 泉さんは恍惚の表情でソラを触り、遂には頬をぐりぐりと擦り付ける。

 泉さんは四つん這いのような状態になり、可愛らしいお尻もそれに伴って揺れている。

 僕はその背徳的な姿に思わず見惚れてしまった。

「……ほら、泉さん。やるよ」

「うー、はーい」

 泉さんは名残惜しそうにソラから顔を離した。

 泉さんとあれほど濃密に接触できるソラが、ちょっと恨めしく思った。

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