第10話
土曜日。
僕はまた客のいない店内で、静かに本を読んでいた。今日も今日とて、モーニングとランチタイムはそれなりに盛況だったが、午後二時を過ぎた頃から誰も来ない。
午後二時半になり、おやつを摘まみたく気持ちを抑えながら自分で淹れたコーヒーを飲んでいると、カランコロンとベルが鳴る。
「いらっしゃい……ませ」
「やほ」
泉さんは右手を小さく上げて挨拶し、カウンター席にちょこんと座った。
「私、もう完全にここの常連だね」
「まだ二回目だろう……」
二回目で常連面をするのは流石に早い気がする。
「今日は一人なのか?」
「うん。あ、いつものやつで」
「分かんねぇよ」
泉さんは愉快そうに笑みを浮かべて、ブレンドコーヒーを頼んだ。
「ケーキセットじゃなくてもいいのか?」
「乙女のお腹事情は厳しいのです」
「スイーツは別腹と言うだろう」
「それ普通にプラスになるだけだから。人間の胃袋一つだし」
泉さんは拗ねたようにそう言った。甘いものを食べたい感情と、カロリーという天敵が頭を過り、その葛藤に苛まれているのだろう。
「ねぇ? 考えてくれた? 試合、観に来るの」
僕がサイフォンでコーヒーの抽出を開始すると、泉さんはふと問うた。
「どうして、そこまでして僕を誘う?」
ここ一週間、泉さんからの連絡が途絶えることはなかった。
毎日夜頃、試合を観に来るように願うメッセージが届いていた。数日すればボットのように誘いの連絡が来て、僕はそれを泉さん同様、ボットさながらに断りのメッセージを送っていた。マルチ商法や宗教勧誘でもこれほどしつこくないだろう。よく知らないけど。
もう中学の頃のような僕は存在しないのに、それでも尚、僕に執着心を抱くのは少し不可解である。
「前にも言ったじゃん。観てほしいから。それじゃあ不十分?」
泉さんは、グッと前かがみになって距離を詰める。
「もう、サッカーには関わりたくない?」
切なげに訊く泉さんの瞳は、少し潤んでいるように見えた。
捨てられた子猫のような弱った様子を目視してしまうと、急速に罪悪感が湧き上がる。女の子がその雰囲気を醸し出すのは、少し狡いと思う。
「そうではないけど……日曜の昼は、店番があるから……」
「店番なんていいわよ。行ってきなさいな」
突如、厨房に続く通路から声が聞こえる。
「……母さん、どこから聞いていた?」
「そこのドアのところから」
「場所じゃねぇよ。会話の内容だ」
「常連云々コントをやってたことから」
「最初からじゃねぇか」
母はあくびをしながらカウンターに歩いてくる。客のいない時は大抵リビングでドラマを見ていて、店番を僕に丸投げする。なのに今日に限って運悪く母が来てしまった。
「こんにちは。若いお客さんが来てくれて嬉しいわ。雄輝の母の
母は泉さんにお辞儀をして、自己紹介をする。
「こんにちは。初めまして、お母様。石野、じゃなくて、ゆ、雄輝君の同級生の泉雪です」
泉さんは母に倣って慇懃に対応する。それらを見ていると、何だか凄くむず痒い。
「これは、ご丁寧にどうもありがとうございます……あんたね、せっかくこんな可愛い女の子がデートに誘ってくれてるのに、遠慮するとか男としてどうかしてるわよ」
「いや、デートじゃないし」
「あら、一緒に試合でも観に行くんじゃないの?」
母はキョトンとした顔をする。会話の内容から、恐らくプロサッカークラブの試合を観戦しに行くと勘違いしていたのだろう。
「違う違う。泉さんの試合が、明日、大栄高校であるんだよ。それを観に来ないかって言われてて」
「じゃあ尚更行ってきなさいよ。どうせあんた毎日家でだらだらしてんだから。特に最近、あんたの部屋のゴミ箱のティッシュの量、やばかったじゃない。一日中、ナニしてんの?」
「花粉症なだけだから! 誤解を招くような言い方をしないでくれ!」
泉さんをちらりと見ると、顔を少し赤くして下を向く。健全な高校生だからしないことはないが、流石に狂ったように何回もしたりしないので、彼女に誤解してほしくない。
「というか、試合の時間が昼なんだよ。だから、一番忙しいとこで抜けることになる」
「別にいいわよ。私が一人でやれば」
「それだと提供のスピードが下がるし」
「別にスピードなんてどうでもいいわよ。都心の牛丼屋じゃあるまいし」
僕は母に言い包められて、言葉を紡げない。というか、店を構えている人間として、そのその発言はいささか問題がある気がする。
「じゃ、私、タバコ取りに来ただけだから。とにかく、店のことは気にしなくていいから。行きたかったら行きなさい」
母はそれだけ言うと、カウンターテーブルに置いてあったタバコを手に持って、また厨房の方へと戻った。
「……石野君のお母さんって、さばさばした人だね」
「色んなことに適当なだけだよ」
嵐のように去った母に辟易する。
「で、お店の方は大丈夫らしいけど、どうする?」
泉さんは当然来るだろうという確信を持った微笑みを浮かべる。
完全に外堀が埋められてしまったので、僕はため息をついてから、本音を泉さんに明かす。
「……僕は、正直、怖いんだ。サッカーを見るのが」
僕は泉さんの前にコーヒーを出す。彼女は礼を言ってカップを受け取った。
自信に満ち溢れた泉さんの姿は、サッカーを辞めてから全てを失った僕をちんけな存在だと感じさせるのだ。
「そっか……深くは訊かないけど、石野君なりの事情があるんだね」
泉さんはコーヒーを一口飲んで、カップをソーサーの上に置く。カチャリと鳴った音が、静寂の店内に響いた。それを合図に、泉さんは顔を上げる。
「なら、こうしようか。私が次の試合でハットトリックをできなかったら、金輪際、石野君を試合に誘ったりはしないよ」
唐突に、泉さんはそんな提案した。
「ハットトリック?」
「サッカーやってたなら知ってるでしょ。一試合で三得点すること。そんなに難しいことじゃない」
「難しいことじゃないって……」
僕はその発言を鼻で笑った。僕のポジションがボランチだったということもあるが、出場した試合でハットトリックを達成したことは一度もない。それを達成しないでプロ生活を終えるFWだって山のように存在する。
「相手は相当弱いチームなのか?」
「ううん。昨年の選手権の地区予選ベスト4。それなりに力はあるよ」
僕は女子サッカーの勢力図をそれほど詳しく知らないが、実力が全くない訳ではなさそうであった。
「だから、次の試合だけでもいい。その一試合だけでいいから、一度だけでもいい。私のプレーを観てほしい…………お願い」
泉さんの自信に満ち溢れた瞳と強気な態度に、僕は悩む。
本音は、誘ってくれる泉さんの願いに、応えたい。
だが、あっさりと承諾したくない思いもある。ここまで断り続け、僕も変なところで意固地になっていて、引くに引けなくなっていた。
しかし現状、僕と泉さんを繋いでいるものはサッカーしかない。
それを失ってしまえば、泉さんはここに訪れなくなるかもしれないし、僕に連絡を寄越すこともなくなるだろう。それは何とかして避けたいという男としての欲がある。
青年としての恋慕への欲望に対し、犬のように忠実に従うか。
もしくは、サッカーから今までのように逃げ果せ、自分の劣情に蓋をするか。
「そうか……でも、僕にメリットが殆どない」
僕はフィンガースナップをする。パチンと軽快な音が響いて消える。
「こうしよう。仮に泉さんがハットトリックを達成できなかったら、毎週ここに来て、何かしら注文をして、金を落としてくれ」
僕は懊悩の末、泉さんと関係を続けられる策を講じた。強制力によりここに来る必要性が生じれば、彼女は来ざるを得ない。
僕は陰キャと評されるような存在ではあるが、サッカーを通さずとも彼女を満足させられる程度の話術は備えているはずだ。友人がいないからと言って、決して口下手な訳ではない。興味のない誰かと話すのが億劫なだけである。
泉さんは僕の返答にニヤリと笑みを浮かべた。
「なるほど。でもちょっとつり合ってない気がするから、こうしよ。もし私がハットトリックをしたら、私のチームの試合に必ず来ること、ついでにコーヒーを石野君の自腹で提供すること。どう? いい感じじゃない?」
僕はその条件に納得する。こちらが高い要求をするのだから、相手からの要求が高くなるのは当然のことだ。
「……交渉成立だ。河川でも湖でもなく、泉から、鴨が葱を背負って来てくれて助かるよ。これでこの店が少しばかり潤う」
僕のそんな挑発じみた発言に、泉さんは不服そうな顔をする。
「そう言っていられるのも今のうちだよ! 試合、絶対観に来てね!」
泉さんは百円玉を四つ机に置き、鞄を持って立ち上がる。
「もちろん観に行くよ。嘘をつかれても困るしな」
泉さんは手を振って店を出ていった。僕も手を振り返し、それを見送った。
「素直じゃないのねー。普通に行けばいいのに」
「余計なお世話だ」
リビングに戻ったと思っていた母は、どうやらこっそりと聞き耳を立てていたようだった。
今のやり取りを親に見られていたと思うと、少し面映ゆかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます