第2章 動き出す時間
第9話
泉さんがホワイトライトに訪れた土曜日、特に何もなかった日曜日が過ぎ、月曜日。
既に新学期がスタートして二週間が経過した。このクラスでの生活も慣れ、各々自分の居場所を見つけていた。それに伴って、学校全体の騒めきも日に日に増していった。
四時間目の授業が終わると、教室の張り詰めた空気は一気に弛緩する。あれだけ静かだった校内が、人の声や足音で一気に賑やかになる。
僕は登校中、コンビニで買っておいた菓子パンを鞄から取り出した。
一番前の列の窓際の席が、現在の席位置であった。『あ』が頭文字の人がいなければ、ごく稀に出席番号が一番になる。今年は偶然その年であった。
自己紹介を最初に行わなければならないのは億劫だったが、それ以外に不満はない。
むしろ、僕はこの場所をいたく気に入っている。この席に座る度、今後席替えがあることが恨めしく思う。
高校に入学してから友人などいないので、僕は基本的に一人で多くの時間を過ごす。
なので、この席は僕にとって打って付けだ。前の席で騒ぐ人はいないし、後ろの喧騒も遠い。それが非常に心地よい。
スマホで電子書籍を読みながら一人で静かに食事をしていると、
「やほ」
と、正面から声をかけられる。
顔を上げると、目の前には泉さんがいた。腰を屈ませ、僕を大きな双眸で見つめていた。
「……どうした?」
僕は怪訝に思いながら、パンを口に運ぶ。
先週、数年振りの再会を果たしたが、まさかいきなりクラスに訪問するとは思わなかった。
泉さんは有名人なのか、クラスの面々の視線を集めている。彼女は小動物のような愛くるしさがあり、胸元は非常になだらかであるが、容姿も悪い方ではない。僕の初恋フィルターを通さずとも、かなりよい見てくれであると断言できる。
泉さんが僕の側にいると、必然的に僕にも視線が集まる。
それは、なぜ石野のようなボッチが美少女の泉さんといるのかといった疑念の眼差しである。ひっそりと静かに暮らしたい僕としては非常に悩ましい。
「お昼、一緒にしてもよろしい?」
泉さんはピンク色の巾着袋を右手に掲げる。左手には水色の水筒が握られていた。
「大丈夫です」
「ありがとう」
「拒否の意味だけど」
僕が拒絶すると、泉さんは不満そうに頬を膨らませた。
泉さんは、隣の席の椅子を勝手に僕の向かいに持ってくる。
「あの、泉さん?」
「はいはい、どけたどけた」
泉さんは巾着袋から弁当箱を取り出して、僕の机の上にドンと置く。菓子パンをどかして、僕の机を占領していく。水筒も同様に置いて、昼食の準備は万端である。
「昼ご飯は友人と食べた方がいいんじゃないの? 女子高生って、トイレも一緒に行かないとハブられるんだろ?」
「そんなちょっと離れたからって友達辞めちゃうとか、そんなの最初から友達でも何でもないでしょ」
確かに泉さんの発言はごもっともである。最近の女子高生は友人と常時一緒にいなきゃいけないという意識は変化しているのだろうか。それとも単に彼女がそうじゃないだけか。
「椅子の持ち主が戻ってくるかもしれないよ?」
「そしたらその子に返して、石野君が立ち食いすればいい」
「自分じゃないのか……」
どうやら泉さんは僕と食事をしたくて堪らないようなので、それ以上抵抗するのはやめた。
「石野君は、どうしてサッカー辞めたんだっけ?」
泉さんは箸を取り出して、弁当箱の蓋を開ける。色とりどりの野菜と、ケチャップが満遍なく塗られたハンバーグ、真っ白なご飯がこれでもかと敷き詰められていた。
「怪我したから」
泉さんの質問に対し、端的に事実だけを伝える。
「本当にそれだけ?」
「怪我の影響は大きかった」
僕が言うことは本当のことだ。パフォーマンスが低下したのも怪我が原因だし、相手に対する恐怖心が芽生えたのも、怪我をしてからのことである。
「そっか……」
泉さんは一つ嘆息する。
「もう、サッカーを観る気はないの?」
「少なくともやる気はない」
「なるほど。観る気がなくなった訳じゃないのね」
「まあ、今は別に大丈夫だ。積極的に関わろうとしないだけで」
サッカーを辞めた当初は、ニュースの試合映像や、子供が公園でサッカーに興じているのを目視することすらひどく不愉快であった。
しかし、時間を経る毎にそんなつらさも軽減していった。
「ならよかった。それなら今週の日曜日、私たちの試合を観に来てくれない?」
泉さんは口角を上げて、そんな提案をする。
「どうして?」
「私の華麗なるプレーを観てほしいからよ」
僕が黙って泉さんを見ていると、彼女は頬を朱に染めて俯いた。自分で言っていて面映ゆくなるなら言わなければいいのに。
泉さんはコホンと一つ咳払いをする。
「十二時キックオフ。場所は大栄高校グラウンド。ニ十分ハーフ、二本勝負」
「そうか。でも、その時間は厳しいな。店の手伝いがある」
「……あのお店、お客さん来るの?」
「失敬な。これでも休日のランチタイムはそれなりに来るんだぞ」
ホワイトライトは、ランチタイムに少なくともテーブル席が満席になる程度の客足はある。
ピーク時でもカウンター席に誰も座らない場合がたまにあるが、それは伏せておこう。
「うーん、残念だなあ……残念だなー」
「そうだね。残念だね」
泉さんはそう言って子供のようにごねるが、僕の意思は決して曲がらない。
だが、こうして高校で再会し、今度は彼女から試合を観に来てほしいと願い出されるとは思いもしなかった。過去の僕なら、二つ返事で了解していたことだろう。
「そっか、今日は断りたい気分なんだね」
「別に次の日以降も承諾することはないけど」
「じゃあ、私が石野君の連絡先を欲しいって言ったら、断る?」
泉さんはポケットからひょいとスマホを取り出した。
「……それは」
僕は泉さんの連絡先を喉から手が出るほど欲しかった。中学時代、どれほど彼女の連絡先を渇望したことか。
現在、取得できるチャンスが目の前に合って、加えて泉さんから交換を所望しているのだ。断る理由などあるはずがない。
「欲しいんだ?」
「……非常に」
「あはは、素直なのはいいことだ。ただ、交換条件はもちろん分かってるよね?」
泉さんの申し出を承諾するなら、試合の観戦をしなければならないということだ。
「……じゃあ、やめておくよ」
僕は感情を押し殺して、そう短く伝えた。
泉さんは珍しい動物でも見るみたいにポカンとした顔で、真っ直ぐに僕を見つめている。
「どうしてー? 欲しいんじゃないの?」
「その条件が飲めないだけだ」
「……じゃ、条件なしでいいや」
「え」
僕は泉さんがあっさりと交換条件なしで構わないと言ったので、狐につままれたような気分であった。
「だって、私が連絡先を訊きたいのは本心だしー。本だしかつお節ー」
泉さんは意味の分からない韻律を奏でながら、スマホを操作する。
「でも僕、ラインやってないぞ」
泉さんは指をピタリと止め、呆気に取られた顔をした。ラインとは、多くの日本人が使用するメッセージアプリのことである。
「……この時代にラインやってない高校生っているの?」
「いるぞ。目の前に」
アプリを使って連絡を取り合うのが普通なのだろうが、僕は中学時代に人との距離を取るために辞めてしまった。以後、両親とは携帯電話のSMSでやり取りを行っている。連絡を取り合う友人などもいないので、それで事足りていたのだ。
「じゃ、番号教えて」
泉さんはそう願い出たので、僕は彼女に電話番号を教えた。
連絡先の一覧に、泉雪の名前が追加される。
僕は頬が弛みそうになるのを堪えて、スマホをポケットにしまった。
「ありがと」
「こちらこそ」
「……私たちさ、昔、連絡先交換しなかったじゃん」
泉さんはスマホをポケットに仕舞いながら、そんなことを呟いた。
「そうだな」
中学時代、彼女と連絡先を交換したいと感じていたが、結果的に教え合うことはなかった。
「私は、結構後悔してたんだ。交換しなかったの」
「そうか」
「でもね、同時にそれでよかったとも、思ってるんだ」
「……どういう意味だ?」
僕は頭に疑問符を浮かべた。
基本的に後悔と喜びは、同時に生じることはないと考えられるからだ。
「それは、知り合いには、教えられないかなー」
泉さんは快活に笑って、皮肉めいた言い回しをする。先週、僕に友人ではなく知り合い程度と言われたことを気にしていたのだろう。
「じゃ、とりあえず試合を観に来ること、頭の中央にでも置いておいてよ」
「片隅じゃないのかよ。凄い意識させようとするな、おい」
「えへへ、じゃ、またね」
泉さんはいつの間にか食べ終えた弁当箱に蓋をして立ち上がる。椅子を元の場所に戻してから、足早に教室を後にした。
僕はそのピンと伸びた背中を目で追いながら、なぜ連絡先の交換をしなかったことをよかったと思うのかを思案した。
しかし、考えても答えが出ることはないと思い、また読書と食事を再開した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます