第8話 過去編 中学二年の雄輝

 翌日の月曜日、昼休みに職員室に向かい、監督へ退部届を提出した。

「石野、辞めてもいいのか?」

 監督は目を丸めてそう問うた。その表情は両親と似たものであった。

「はい」

「……ミスのことを悔やんでるなら、誰も気にしてないぞ。長くスポーツをやっていれば、そういう時もある。切り替えることも大事だ」

 それは暗に辞めるなという意図を込めた発言であった。

 僕はその言葉と態度に辟易する。誰も気にしていないなど、物事を読み取れていない、上辺だけの主観的な判断に過ぎないことを僕は理解していた。

 監督の説得で僕がチームに残ったとして、誰がそれを歓迎するというのか。

「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」

 僕はそれだけ言って職員室を後にした。

 そうしてサッカーを観ない、やらない日々が始まった。

 最初は何となく手持無沙汰な状態が続いたが、勉強にきちんと取り組み、あり余る時間を読書に当て、ずっとしていなかった喫茶店の手伝いを始めたりした。

 空いてしまった大きな穴を少しずつ埋める作業のような毎日だ。でもそうすることで少し楽になるし、何かに取り組んでいると、あの試合や会話がフラッシュバックして陰鬱な気分になることもない。だから、こうして過ごすことに、特段問題はなかった。

 幸い、僕に辞めた理由を問う人も、引き留める人もおらず、いじめをして追い打ちをかけるようなこともなかった。陰口くらいは話し合っているかもしれないが、ラインも消して他者との連絡を断ってしまったので、それを知る由もない。

 だが、隆二が僕に声をかけなかったことは少なからずショックではあった。しかし、男に話しかけられないのを気に病んでいるのもおかしなことだと解釈し、取り立てて気にしないよう努めた。去る者を追う時間を練習や勉強に当てたいという考えもあるだろう。

 結局、そうして日々を過ごしていると、すぐに日曜日になった。

 当日になっても、僕は未だ懊悩していた。

 しかし、応援してくれた相手に報告をしないことは、とても不義理だと感じる。せめて泉さんに辞めたことを伝え、後腐れなく関係を断った方が適切だと判断した。

 僕は一週間で最も忙しい日曜日のモーニングとランチタイムの仕事を手伝った。

 そして雲一つない快晴の午後二時頃、僕は遂に決心する。

「母さん。僕、ちょっと出かけてくる。ディナータイム前には、戻れたら戻る」

 客がいなくなったからと隣でタバコを吸う母に声をかけて、僕は椅子から立ち上がる。

「あんた何? そんなビクビクして。これからデートにでも行くの?」

 自分が思っている以上に声が震えていたのだろうか、母は怪訝な表情で僕の顔を見る。

「そんなんじゃないよ。図書館に行くだけ」

「そ、女の子に会いに行くのね」

「……」

 母はエスパーか疑わしくなる。それとも単に僕が分かり易いだけだろうか。

 僕は自室で学校の制服に着替えた後、バスに乗って駅まで向かう。バスには日曜日だというのに片手の指で数えられる程度の人数しか乗車していない。

 バスは安全運転でゆっくりと時間をかけて前進する。それが今は凄くありがたかった。

 泉さんに伝える言葉を細部までイメージし、深呼吸をして覚悟を決める。

 バスは平時通り、約ニ十分で駅に到着する。

 全員が降りるのを見届けてから、徐に降車する。

 何度も小さく深呼吸しながら、図書館へと牛の歩みのようにゆっくりと向かう。

 図書館の透明の自動ドアを抜け、静かに館内へと入る。

 館内に目を配らせる。しかし、どこにも泉さんの姿はない。

 少し歩き回ってみるが、彼女の姿は見受けられない。

 もしかしたら用事があり、今日は来ていないのだろうか。

 ここに来る日が多いとは言っていたが、必ず来るということではないのだろう。

 僕はとりあえず椅子に腰かけて、閉館時間まで本を読みながら泉さんが来るのを待った。入り口から誰かが入ってくるのが分かる位置に座り、時折そこに注意を配った。

 だが、待てども待てども、泉さんは姿を現さない。

 連絡を取りたいと思うが、彼女の連絡先は訊き出していない。こんなことなら変な縛りを設けず、素直に連絡先を交換しておけばよかったと思う。

 結局、泉さんはこの日は図書館に来ることはなかった。閉館時間となってしまったので、僕はもどかしい思いを抱えながら図書館を後にする。

 翌日以降も、日曜日はもちろん、部活もないので平日も図書館に通った。泉さんがひょっこりと、僕の前に現れてくれることを願っていたからである。

 しかし、泉さんが図書館に来ることは、一度もなかった。

 冬休み中も、雪が降らなくなっても、桜が咲いても散っても、泉さんが僕の前に現れることはなかった。

 中三の夏休みに入っても、僕は継続的に図書館に通っていた。だがこの時期になると、受験勉強に本腰を入れなければならなかった。

 僕も同級生がそうしているように、夏休みから塾に通い始めた。

 そうなってしまえば、必然的に図書館に赴く回数も減る。八月の上旬からは殆ど行かなくなった。中旬以降は、高校生になるまで、図書館の景観すら見なくなった。

 そうして大栄高校に進学してからは、毎日授業の予習と復習をして、自宅に帰って喫茶店の手伝いをした。

 そうして日々の課題を忠実にこなし、目標や目的もなく、何となく毎日を過ごすようになっていった。

 もう、泉さんのことを思い慕っていても意味はないのだ。雪のように溶けて目に見えなくなってしまったものを追い求めたって、それは時間の浪費でしかない。

 それに泉さんに会わなければ、僕の今の情けない姿を見られることはない。

 それはとても幸運なことなのではないかと、そう思うのだ。

 泉さんには、あのサッカーをしていて、目標に弛まぬ努力していた勇ましい僕だけを記憶してもらえれば、それで十分なのだ。

 そうして僕は初恋を、心の奥底にひた隠しにした。

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