第7話 過去編 中学二年の雄輝
自宅に帰ったものの、何となくまだ一人になりたい気分だった。
なので、外に停めてある自転車を漕いで、自宅近くの公園へと向かった。
長い曲がりくねった坂道を走る。ひどく急な上り坂は全くつらくなかった。試合に出た時間が短かったので、不本意だが体力はあり余っている。ちょっとやそっとじゃ疲れはしない。
街並みが次第に遠くなっていく。ガードレールに薄っすらと積もった帷子雪が、音もなく落ちる。夕刻の空に半透明の月が淡く浮かんでいた。
グネグネとした坂道を上り終えると、開けた場所に出る。それほど広くない駐車場とトイレが設置されているだけで、ひどく物寂しく殺風景だ。
現在車は一台もなく、どうやら今の時間は誰もここにいないようであった。
僕は自転車を邪魔にならない適当な場所に停める。眼前には階段があり、ゆっくりと踏み締めて上がっていく。聞き慣れた雪を踏み締める音により、試合のことが想起された。
上り切ると、小さな広場に出た。
石の円柱が六つほど等間隔で置いてある。それ以外は何もない。
だが、この場所はそれだけ十分なのだ。
眼前には、飲み込まれそうなほどの大海が、果てしなく広がっている。
右手に聳えるのは我が市を代表する建造物である大きな橋が屹立している。真っ白なそれは、夕暮れの下で圧倒的な輝きを放っていた。
左手にはもわもわと煙を吐き出すコンビナートが見える。白銀の世界の中で煌々と瞬いて、息を飲むような美しさがそこにあった。
遠くに見える住宅にもちらほらと明かりがつき始めていて、小さな頃からずっと変わらない日常が存在した。
それをこうして見下ろしていると、自分だけが世界から切り離されたような感じがする。
それは、僕の心をいつも癒してくれる。
テストでゼロ点を取って叱られた時、友人と喧嘩した時に、決まって僕はここに来る。
今、身の回りで起きていることは、この世界にとってひどくちっぽけであることを教えてくれるのだ。この世界の誰もが、似たような悩みを抱えて生きていて、自分だけが苦しみの中にいる訳ではないと諭されているように感じるのだ。
そう思うと、いつも気持ちが少しばかり楽になり、また一歩を踏み出そうと思える。
しかしながら今日に限っては、僕の気持ちが癒えることはなかった。
自分の不甲斐ないプレーが頭の中に思い起こされる。それは擁護のしようがないくらいひどいものであった。八ヶ月前では考えられないようなプレーであり、それに最も驚いているのは何より僕自身であった。
相手が迫ってきた瞬間、あの時の痛みが体の奥底からよみがえった。
恐怖は僕の足を竦ませて、正常な判断をできなくさせた。
けれどそれ以上に、チームメイトの失望が僕の動きを鈍らせた。失点の瞬間のどんよりとした空気が堪らなく不愉快で、居心地を悪くさせた。あのプレーがなければと暗に示す沈黙が肩に重く圧しかかって、心身を鎖で雁字搦めにするように僕を強く苦しめた。
もちろん、サッカーはチームスポーツなので、そういう場面は過去に幾つもあった。小学生の時にだって経験してきた。
だが、その時とは明らかに違う敵意と失望が、精神に襲いかかったのである。
その上、小学生の時分では有り得なかった僕の上位互換が現れ、期待を寄せられている。
重要な時期に何ら問題なくプレーをできていたチームメイトと、実力が大きく突き放されたことにも、苦しさが募った。
見ている景色が、少しずつぼやけていく。橋、家、山、そして海が、曲がって歪んで虚ろになっていく。自分でも何が起こっているのか分からなかった。
しかし俯いたその時、薄く積もった雪の上に、小さな丸いシミが生まれたことで自覚した。
泣いていた。まるでそこにだけ豪雨が起きたように、多量の雫がとめどなく流れて落ちて、地面をにわかに湿らせる。しとしとと落ちた水滴は、少量の雪を少しずつ溶かしていく。
「……無理だ」
僕は静かに呟いた。
自分を信じていたからこそ、計り知れないショックに胸が締め付けられた。
こんなことで折れてしまうのは、凄く情けなくて悲しかった。
でも、見返してやろうという気持ちは起こらなかった。今後、確かに能力が向上して元の状態に戻るかもしれない。場数を踏めば、トラウマも払拭できる可能性はある。
だがそこに辿り着くまで、何度傷つき、何度苦しめばいいのか分からない。
もしまた今日のような大きなミスを犯し、チームメイトに迷惑をかけてしまったらと思うと、もうボールを蹴る勇気は湧かなかった。
一しきり涙を流した後、僕は自宅に戻った。
そして僕はその日の内に、父と母にサッカーを辞めることを告げた。
当然のことながら、二人は僕を説得した。試合の詳細を聞き、その程度で辞めてしまってもいいのかと言われたが、そのギャップは僕の辞めたいという気持ちに拍車をかけるのには十分だった。彼らにとってはその程度のことでも、僕にとっては非常に重要なことだったのだ。
両親は最終的には僕の判断を尊重した。彼らの頭の中には、今は消沈しているだけで、またやりたくなってくれるだろうという楽観的な考えもあったのかもしれない。
僕はその日の夜に、自室に飾ってあるサッカーのポスターを外し、ボールも処分し、今まで残しておいたスパイクをまとめて袋に入れ、サッカーに関連するありとあらゆるものを廃棄しようとした。
母が代わりに全て捨てておくと告げたので、僕はそれらを全て母に渡した。
僕の部屋はかなりすっきりとした。長年張っていたポスターによって壁は日焼けしており、一部分だけ色が異なっている。サッカー漫画が敷き詰められていた本棚は殆ど空っぽになったし、机の引き出しにも多くのスペースが生まれた。そんな光景を目にすると、サッカー以外殆ど何もしてこなかったのがはっきりと分かった。
だが、それで完全にすっきりとすることはなかった。
なぜなら、泉さんのことが気がかりだったからだ。
片付けをしている時も、風呂に入っている時も、寝る前も、常に泉さんのことがどんなに消そうとしても消えないシミのように頭の中に残り続けていた。
泉さんにサッカーを辞めることを伝えたら、どのような反応を示すだろうか。
僕に続けるように促すだろうか。それとも尊重して労ってくれるだろうか。
それを知りたい気持ちでいっぱいであったが、結論を出されたくない気持ちも同じようにあって、ひどくもどかしかった。
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