第3話 過去編 中学二年の雄輝

その日を境に、僕は毎週日曜日、図書館に通うようになった。当然時間が経てば松葉杖を使わないようになり、歩くことも難しくなくなり、走ることもできるようになった。

 泉さんはその過程を毎週見て、その度に励ましてくれたし、僕以上に喜んでくれた。彼女の笑顔を見ると、俄然やる気が湧いてくる。経過報告をするのが楽しみで、それ自体がリハビリの原動力になっていた。

 泉さんはサッカークラブの練習がない日曜日は、必ず図書館に訪れるようだ。家だと何となく集中できないので、ここで勉強をしているらしい。

 サッカー選手としては主にボランチでプレーをし、前にいる選手をパスでサポートするタイプのようだ。まさかポジションとプレースタイルまで同じだとは思わなかった。

 泉さんは日本代表に選出されて、ワールドカップに出場することが目標だと語った。そういう高いこころざしを持つ彼女と一緒に時間を過ごすのは、僕に多大な刺激を与えた。

 そして、太陽が燦々と照りつける日々が続く夏が訪れる。

 僕はやっと別メニューながらも練習に参加できるようになった。まだ全体合流とはいかないので、仲間が意気揚々とプレーする様子を見ていると、少し虚しい気持ちになる。

 だが、それでも小さな目標を地道にクリアしていった。全体練習にできるだけ万全な状態で合流したい気持ちがあるし、どんなに小さな課題でも、クリアをすれば泉さんが褒めてくれることが何よりも嬉しかった。

 夏休みに入って、泉さんは図書館に訪れる日を増やしたらしい。既に受験のことも考え、塾にも通うようになったと言っていた。サッカーに精を出し、早い段階から受験勉強も励む彼女を尊敬していたし、僕も同じように勉強に遅れを取らないよう精進をしなければならないとも思う。取り組むかどうかは別にして。

 長期休暇中も、僕が泉さんに会いに行くのは日曜日だけだった。それ以外の日は部活もあったし、何より彼女に日曜日以外にも会いに行くのが、無性に気恥ずかしかった。

 本音は泉さんと会う日を多くしたかったし、連絡先も訊きたかった。

 けれど、それを言う勇気はなかった。第一、泉さんはわざわざ予定を合わせて会うほどの間柄とは思っていないかもしれない。そう思って、臆病な僕は関係を進展できずにいた。

 そんな中、ある夏休みの一日。

 僕がサッカーの戦術本を読んでいると、隣に座る泉さんが話しかけてきた。

「石野君、実はこの前の試合で、困ったことがあったんだけど……」

「どうした?」

 図書館なので、迷惑にならないように小さな声で話す。自然と僕らの頭は接近する。

「私、この前、試合に出たんだけど……全然前にパスが繋がらなくて……」

 泉さんは自身のノートを見せてくる。

 そこにはサッカーのハーフコートが描かれており、黒と赤の点が幾つか書かれている。

「赤が私のチームでオフェンス。黒が相手のチームでディフェンスね」

 どうやら攻撃側が赤丸で示されており、FWとして三つ、MFミッドフィルダーと想定して二つ表記されている。守備側はDFディフェンダーが四つ、MFが三つだ。攻撃側と守備側、両方とも横並びで記されていた。

「私、このポジションで試合に出たんだけど……カウンターの場面になって、どこに出せばいいのか分からなくなったんだよね……石野君なら、どうする?」

 泉さんは、MFと仮定した左側の赤丸をペンで突く。

 僕はそのノートを見て、少し頭を悩ませる。確かに、泉さんがパスを出す場所に迷うのは頷けた。

 この局面では、多くの選択肢がある。例えば、センターFWにボールを預けてもいいし、サイドの選手にボールを渡して、ディフェンスと一対一を作らせるパターンもある。

 もし、味方が相手のディフェンスラインの背後へと抜けるプレーをするのならば、そこにスルーパスを出してもよい。また、これはチームの戦術やその時のスコアにもよるが、ボールを保持してゆっくり攻めることも策の一つだ。

「泉さんは、どんなプレーをしたの?」

「私は真ん中のFWの選手が裏に抜けるかなって思って、そこにスルーパスを出したんだけど、本人は足元でもらおうと思ってたみたいで、意識が合わなかったんだよね」

 泉さんはため息交じりにそう答えた。彼女の選択は、意思の疎通が上手くいかなかっただけであり、一概に悪いとは言えない。

「気持ちは分かる。そこがゴールに一番直結するからな」

 僕は首を縦に動かした。得点を取りたいのなら、ゴールに近い場所に出せばいい。安直な考えかもしれないが、それが意外と得点に繋がることもある。

「パスを出した場所は?」

「多分……ゴールから三十五メートルくらいだと思う」

「少し早いかな。僕なら、もう少しドリブルで持っていく」

 僕は自分のペンケースから鉛筆を取り出し、真ん中のFWの赤丸から、上へと向かって矢印を描く。

「この選手、元から裏を取るタイプの選手か?」

「うーん、どちらかと言えば……足元でボールを受けることが多いかも?」

「もしそういうタイプなら、一度ボールを預けて、自分で前線に上がる方がいい。もしリターンパスが来なくても、前線に顔を出すこと自体が、相手の脅威にもなる」

 泉さんは終始頷いていたが、「でも」と言って疑問を呈する。

「ここで私が前に上がって行っちゃうと、後ろに広いスペースができちゃうよ」

 泉さんの心配は、相手のカウンターについてだろう。泉さんのポジションは恐らくインサイドハーフなので、もしボールを奪われてしまえば、空いたスペースを利用されるのは必然である。ちなみにインサイドハーフは、攻撃と守備の双方を行うMFである。

「確かに泉さんの言う通りだ。けれど、恐らくこのフォーメーションなら、アンカーが下にいるはずだよな。だからSBサイドバックが上がっていたとしても、そこをアンカーがちゃんとカバーしてくれていれば、他の選手が自陣に戻る時間は十分にある」

 サッカーに於けるアンカーとは、守備を専門とするMFのことである。大抵の場合、相手の陣地の高い位置でプレーすることは少なく、相手のカウンターになった際に、空いたスペースを埋めたり、ボールを奪ったりするのが役割とされる。

 そうした選手がいることで、前線の選手は気負わずに攻撃ができる。昨今のサッカーは全員守備の意識を持つことを重要視されるが、時には背中を託すことも大事である。

 僕はノートにたくさんの矢印を描き込んで、懇切丁寧に説明する。

 そして、インサイドハーフの赤丸の点に、囲うように大きく丸を描く。

「もう少し、泉さんは味方を信じてあげればいいのかもしれない。それに味方の特性が分かれば、更にいいプレーができると思う。あと、それができるようになったら、相手の考えを読むこともね」

「相手の考えを読む……? 味方でもよく分からないのに……」

 泉さんは唸って腕を組む。唇を尖らせて悩む姿が幼気で愛らしくて、ずっと眺めていたい気分になったが、流石に気持ち悪いと思われそうなので目線をノートに戻す。

「別に頭の中を見破れってことじゃない。ディフェンスがこうされたら嫌だなって思うプレーをすればいいんだ。中央を崩されたくないなら、相手は全体を絞ってサイドをがら空きにしてそこに誘い込もうとする。そうする相手の逆手を取って、中央で崩していくとかね」

 小学生の頃、人からされて嫌なことは人にしないようにしようと教えられたが、サッカーでは、相手の嫌がることを全力でやることが、チームの勝利に直結することが間々ある。

「あと、僕が中一の時の試合であったことだけど……相手のボランチが、かなりボールにアプローチするタイプだったんだ。だから、あえてその選手が取れると思わせるようなボールの持ち方をしたりしたね」

「あえて?」

 泉さんは小首を傾げる。

「うん、あえてね。そうやってボールを持てば、相手が無理やりにでもボールを取ろうとする。そしたらその後ろには広大なスペースができる。その選手を躱して、空いたスペースを上手く使えれば、ゴールに繋がる可能性が高まる。結局、その時はゴールにはならなかったけど」

 僕は当時、ドリブルで駆け上がってミドルレンジからシュートを狙ったが、上手くミートせずに力のないお粗末なものになったことは伏せておいた。泉さんにはかっこいいところだけを知っていてほしいという浅ましいプライドであった。

「へー、そんな風に考えるんだ……私、自分のことでいっぱいいっぱいだったな」

「試合数をこなせば、必ず分かってくるよ。それまでは地道にやるしかない」

「そっか。教えてくれてありがと」

「あ、あぁ」

 僕は存外、泉さんとかなり近い距離で話していたことに気付く。彼女の笑顔は目と鼻の先にあって、それを目視した途端、顔が急速に熱くなった。

 僕はすぐに泉さんから距離を取り、先ほど読んでいた本に視線を戻した。

 そうでもしないとずっと泉さんを見続けてしまいそうな気がしたからだ。

 やたらと頬が熱い。図書館はもっとエアコンの温度を下げるべきだろう。


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