第2話 過去編 中学二年の雄輝

 学校でも自宅でも、時間さえあればボールを蹴っていた。もちろん夢はプロになって、我が出身地を本拠地とするチームでデビューすることだった。真っ赤なクラブのユニフォームに袖を通し、ピッチで躍動する姿を毎晩想像しながら眠っていた。

 残念ながら小学校六年生の時、そのチームのジュニアユースのセレクションを受けたものの、あえなく落ちてしまった。都道府県のトレセンには呼ばれる程度の実力はあったから合格できると思っていたが、上には上がいるものだ。

 なので、僕は高校選手権での活躍を目標にし、高校卒業後にJリーグデビューを飾ることを理想の人生設計とした。

 よしんばそれが叶わなかったとしても、日本は大学サッカーの質も非常に高い。デビューはニ十歳以降になる恐れはあるが、そこから日本代表へのルートを歩むことは可能である。

 だからそのために、小さい時からできることは何でも取り組んでいた。

 だが、全てが順風満帆にいくはずもなかった。

 地元の中学校に入学し、二年生になってから最初のリーグ戦の試合。

 丁度、桜が散り始めた頃であった。

 僕たちのチームは前半を終え、五対〇の大差でリードしていた。

 僕の入学した中学は、地区リーグで毎年優勝争いをする強豪だ。片や、相手は昨年の最下位チームであり、この結果は必然であった。

 僕は上級生をしりぞけ、ボランチのレギュラーメンバーとして、一年の時から出場を続けていた。その試合も同様にスターティングイレブンとして名を連ねていた。

 前半、果敢な攻撃参加で一点取り、加えてCKコーナーキックからアシストも記録した。

 いつも以上に右足が冴えていた。得点差の余裕もあり、更によいプレーが行えていた。

 しかし、意気揚々と臨んだ後半に、悲劇は起こった。

 左サイドで攻めあぐねたチームメイトが僕にボールを寄越す。敵陣地でゴールから約二十五メートルの絶好の位置。真っ直ぐ前に視線を向ける。

 ミドルシュートを打とうと考えたが、眼前に相手選手が立ちはだかった。

 抜けると、確信した。僕は左サイドにいくと見せかけて、右足のアウトサイドでボールを右前方に出した。騙された相手の重心は完全にズレた。

 そのままゴールの前に向かって走り出す。

 高精度のパスが持ち味な僕は、普段なら決してやらないプレーをした。一ゴール一アシストをしていることによる自信と高揚感が、そんなプレーを選択させた。

 ルックアップして周りを見渡す。CBセンターバックの一人はボールを奪おうと近寄ってくる。

 そのため、FWフォワードのマークを外している。FWは完全にフリーの状態だ。

 定石通りであれば、そこにスルーパスを出してゴールのお膳立てをするだろうし、それが最適解でもある。

 しかし、そうしなかった。もう一点、自分で取りたいという欲が体を支配していた。

 僕がCBを振り切ろうと躍起になっていると、背後から急に足が伸びてくる。

 先刻、僕に抜かれたボランチが、ファウル覚悟でスライディングをかましたのだ。

 避けようと思った時には、遅かった。

 右足は相手の両足に挟まれ、僕はあえなく転倒し、土の上にうつ伏せになった。

 直後、強烈な痛みが膝に走った。

 まるで膝から下が取れてしまったかのような、不可思議な感覚。右足を動かそうとも一切動かせない。脳が伝令を送ることを真っ向から拒絶しているのだ。

 僕が慟哭するのと同時に、レフェリーの笛が高らかに鳴った。

 周りの選手たちはみな狼狽し、深刻な面持ちで頭を抱えている。

 その時の記憶は殆どない。明らかに意識はあったが、強烈な痛みによって何かを考えることが無意識的に放棄されていた。

 結局その後、病院で診てもらったところ、右膝前十字靭帯断裂と診断された。

 医師からその単語を聞いた時、頭の中が真っ白になった。

 なぜならその怪我は、多くのサッカー選手の引退を余儀なくさせるものだからである。医療の進歩によって現在は完治が可能となったが、それでも怪我をする前のプレー水準に戻すことはかなり難しい。

 だが、この程度で諦めたくはなかった。数々のプロ選手がこの怪我に悩まされているが、それでも執念で立ち上がっている。僕もそんな彼らのように、必ず復活できると信じていた。

 しかし、現実はただただもどかしかった。普通に歩くのがひどく困難だったことはもちろんだが、何よりボールを蹴れないのがつらかった。サッカーをしない期間がこれほど長いことは、人生で一度たりともなかった。

 ベッドの上でどうしようもない思いを抱えて横たわっている時、車椅子に座ってじっとしている時、同年代の選手たちは切磋琢磨しているのだ。

 特に、同級生の中川隆二なかがわりゅうじは目を見張るものがあった。小学生の時から同じチームでプレーする彼は、僕と同様、中学一年の頃から上級生を押しのけてレギュラーに君臨している。

 周りよりもずっと背が高く、足の速いFWである隆二は、既にチームにとって欠かせない存在になっている。

 もちろん僕は、この療養期間を無駄にするつもりは毛頭ない。動画サイトで選手のプレー集を見たりして、参考にできそうなものを漁った。サッカーについての本を読み、より知識を深めていた。

 手術後一週間の車椅子生活が終わり、松葉杖での歩行も慣れた頃、市営図書館に行こうと考えた。インターネットで得られる情報には限りがあるし、中学校の図書室よりも本の数が圧倒的に多いからである。

 復帰した時に万全の状態でプレーするために、栄養と食事について書かれているものや、フィジカルトレーニングの参考になる本などを読もうと思った。だが、図書室には残念ながら、そういった専門的な内容の書物は置かれていなかった。

 洗濯物がよく乾きそうな天気の中、自宅近くのバス停から駅へと向かう。

 日曜日だと言うのに、田舎のバスには殆ど人がいない。

 バスに乗って約二十分で、目的地に到着する。そこから少し歩くと、赤茶と灰色の建物が見えてきた。

 僕は松葉杖を用いてすいすいと向かっていく。この歩行にも大分慣れてきて、当初よりも速く歩けることに沸々と喜びが湧いてくる。しかし早歩きの主婦にあっさり抜かされると、ちょっとだけ惨めな気持ちにもなった。

 図書館のドアを抜け、目的の本がありそうな場所に足を向ける。

 まずはスポーツ本のコーナーを一通り見る。背表紙をぼんやりと眺めていると、棚の一番上にリハビリについての本を見つけた。

「……っ」

 そこに手を伸ばすがギリギリ届かず、危うくバランスを崩しそうになった。平時なら背伸びをすれば問題なく取れる距離であったが、現在のような状態では難しい。

 しかし、頑張れば届かない距離でもない。わざわざ台を探すのも億劫だったし、それを使ってしまうのは何となく負けた気持ちがするので、懸命に腕を伸ばす。

 しかしどうしても足元が不安定になり、指先が届かない。

(何やってんだろう……僕は)

 その時、ふと虚無感に苛まれた。

 こうして本を取ることも困難になり、歩く速度も遅くなった。今までできていたことの何もかもが厳しくなって、それに再三つらい思いをして、その上、周りにはどんどん差を付けられるのだ。

 今は仕方のないことだと割り切って、懸命にやれることをやればいい。

 だが、頭でそれを理解していても、感情は伴わない。

 負の感情は、まるで膿んだニキビのように、強烈な不快感を湧き上がらせる。

 ひどく屈辱的で、やるせない思い。それは僕の体を蝕み、心身をずたずたに引き裂くのだ。

 そもそもこんなことになったのは、あの実力のない間抜けな男のせいなのだ。僕のドリブルでコケにされたからとムキになって、ラフプレーを仕かけたあの選手が元凶なのだ。弱小のチームでプレーする彼が、将来的にプロのクラブで試合をすることはないだろう。

 強い思いもなく、暇潰しでサッカーをやっている人間が、僕の足を壊したことに腹が立つ。

 彼は日々、何をしているだろうか。友人とコンビニで買い食いでもしているのだろうか。

 クラスメイトの女子で誰がいいかなど、意味のないことを語っているのだろうか。

 僕が苦しみながら生活する中で、他愛もないことで笑っているのだろうか。

 そんなことを考えていたら、少し気分が悪くなった。

 せっかく来たが、今日のところは帰って寝よう。アスリートにとって多大な睡眠時間の確保と質の向上は必須である。一日を元気に過ごす上でも、身長を伸ばすためにも欠かせない。

 そう考え、すぐにその場を移動しようとする。松葉杖の音が静寂の図書館に虚しく反響する。

「あっ、あの……これっ」

 すると、後方から小さな声で誰かが僕を呼び止めた。

 振り向いた先にいたのは、百五十五センチの僕と殆ど同じくらいの背丈の少女だった。はっきりした目元と栗毛のボブカットが印象的で、休日だというのに律儀に制服を着用していた。着崩しもなく、埃も皺もない清潔感のある服から几帳面そうな印象を受ける。

「これ、取りたそうだった、ので」

 少女の手には、先刻、僕が取ろうとしていた本が大事そうに握られていた。足元には荷台が置かれていたので、恐らく僕のことを慮ってわざわざ取ってくれたのだろう。

「……ありがとうございます」

 僕は帰宅したい気分だったので取ってくれる必要はなかったのだが、僕のために時間を使い、行動してくれた彼女を無下に扱う訳にもいかず、渋々それを受け取った。

「ごめんなさい。わざわざ」

「いえ、大丈夫ですよ……あっ、ドサコちゃんだ」

 少女は僕の背負っているリュックに取り付けられているキーホルダーを指差し、明るい声でそう言った。

「あぁ、そうですよ。知ってるんですね」

「はい、私、サッカーやってるので……」

 少女は口角を上げてにんまりとする。僕は自分とそんな共通点を持つ彼女に、ふと好意を抱く。もちろんそれは、恋慕と異なる対象への単なる興味だ。

「そうなんですか。道理で知っている訳だ……僕もサッカーやってるんです。それで、プロになるのが夢で……けど、見ての通りこんな状態で……」

 僕が空笑いを浮かべると、少女の目線が落ちる。その目は僕の右足に巻かれている包帯を確実に捉える。今日はハーフパンツなので、それははっきりと見えるはずだ。

「もしかして……膝、怪我したんですか?」

「えぇ、靭帯を。おまけに損傷じゃなくて断裂です」

「っ……そうなんですか……」

 少女は柔らかな笑みを仕舞い込み、深刻そうな表情になる。サッカーをやっている人間として、そのつらさが手に取るように分かるのだろう。

「まあ、でも……何とか治して……それで、すぐに復帰します、絶対」

「が、頑張ってください! 応援してます!」

 少女はそう僕にエールを送った。その声があまりに大きかったので、近くを通った女性の司書が窘めた。少女は会釈をして、口許を両手で押さえた。

 その様子が少々おかしくて、僕は失笑した。女の子から励まされるのは、凄くこそばゆくて心地がよかった。

「ありがとうございます……ごめんなさい、初対面で、こんな話して……」

「全然大丈夫ですよ。それじゃ、私はこれで」

 にこやかに手を挙げて、少女は立ち去ろうとした。

「あのっ……」

 僕は少女の華奢な背中を見て、とっさに呼び止めた。

 怪訝そうに振り向く彼女の瞳の中に、僕の緊張した面持ちが反射する。

「また、会えますか?」

 そう訊いたのは、単純に共通の趣味を持っている女の子とお近付きになりたいという不純な動機だ。

 でもそれ以上に、会ったこともない人をこうして応援できる彼女に、強く惹かれていた。単なる社交辞令の可能性が高いし、恐らく彼女は誰にだって同じことを言うだろう。

 だがそれを頭の中で理解していても、強い好奇心を抱いてしまうのは中学生のさがであった。

「はい、会えますよ。日曜日は大体ここに来てます」

「そうですか……えっと、お名前は?」

「泉雪、十三歳です」

 伏し目がちに問うと、少女は微笑みを浮かべて答えた。僕はその答えに瞠目した。

「僕は、石野雄輝。十三歳」

「同い年だった……んだね」

「……そうだね」

 彼女がタメ口に切り替えたので、僕も合わせて敬語を外した。年齢まで一緒だったことに、僕は運命を感じずにはいられなかった。

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