第1話D

 彼女にそのような趣味があったことを知らなかった。とは言っても、僕も泉さんに自宅が喫茶店だと言っていなかったし、お互い様である。

「ただ、一人だとこういう老舗っぽいお店って、入り難いでしょ。だから、鈴に毎回付き合ってもらってるんだー」

「けど、あたしはコーヒー苦手なんだよね。あ、ミルクある?」

 沢田さんは困った様子で項垂れる。

 僕は後ろにある冷蔵庫から紙パック牛乳を出す。基本的にこの喫茶店でミルクを所望する利用者は少ないので、仮にいた場合はこのように提供している。

「センキュー」

「どういたしまして……そう言えば、さっきサッカーやってるって言ってたな。今日は部活の帰りか?」

 僕が問うと、泉さんは首肯した。

「そうだよ。土曜日は午前中だけ。明日は休みだから、せっかくだから遠いところに行ってみようってなって」

 泉さんは「そう言えば」と思い出したように呟いて、

「石野君は、サッカー、どうなの?」

 泉さんは宝物を探す子供のような好奇心旺盛な瞳で尋ねる。

 それはこうして再会したら、必ず訊かれるとは思っていたことだ。

 そしてそのために、泉さんに言うことを何度もイメージしていた言葉は、喉に突っかかって出ることはない。流石にこのイレギュラーな状況で、しかも数年も前の言葉を言える準備はできていない。

「……別に。サッカーとか、そんなの……」

 僕はそう小さく呟いて、泉さんから目を逸らした。

「あれ? サッカー好きじゃないの? あそこにドサコちゃんいるし」

 沢田さんはコーヒーにミルクではなく、ミルクにコーヒーを入れたような状態のものを飲みながら、僕の後ろを指差した。

 棚の上方には、抱き枕くらいのサイズのドサコちゃんが鎮座している。気怠そうに寝そべった牝馬は、我々を退屈な眼差しで見下ろしている。

 ちなみにドサコちゃんは、我が町のプロサッカークラブのマスコットキャラクターで、二足歩行の白い毛並みの牝馬だ。ピンと立った耳がクールで、円らな黒い瞳がキュートなのが特徴だ。

「あれは父さんのやつ。チームのファンなんだよ。サッカー好きだから。僕は、今は違う」

「今は、ね」

 泉さんは笑顔を仕舞い込み、「今」の部分を強調する。

 同時に、僕は自分の失言に気付いた。

 泉さんは決定的証拠を突き付ける目前の刑事のように、真剣な目で僕を見据える。

 流石に言い逃れはできないと思い、僕はため息をつく。

「……中二の冬で辞めた。今は、怪我の影響もあってやってない」

「怪我?」

 沢田さんは僕の怪我について知らないだろうから、そう純粋に問うた。

「前十字靭帯をやったんだ。断裂。足が、こういう風に」

「あー、やめて、大丈夫、言わなくていい。分かった。凄くつらいやつ」

「スライディングされて、絶対に自力では曲がらない方向に、こう……」

「やめてって言ったよね!? あー、やばい、想像したらやばい……」

 沢田さんは両耳を塞いで、僕の声を遮断しようとする。せっかくジェスチャーを交えて詳しく教えてあげようと思ったのに。

「そうか……訊きたくなったら、いつでも訊いていいぞ」

「一生ないから」

 沢田さんの反応に、僕は苦笑した。

 泉さんは僕らのやり取りに、笑顔を見せることはなかった。ギュッと拳を握り、何かを言いたげに口をもごもごと動かした。だが特に発言はせずに、コーヒーをゆっくりと啜った。

 沢田さんは空になったカップに牛乳を注いでいた。それだけで飲むものではないのだが、僕は咎めるのも億劫だったので何も言わなかった。

「……私は、プロ、目指してるよ」

 すると、泉さんが唐突にそう言った。

「知ってるよ」

 中学の時、散々聞いたことだ。今でもそれは覚えている。そういう高い目標を目指す仲間だと思っていたから、僕は泉さんに強く惹かれたのだ。

「石野君は、もうやらないの?」

 その面構えが真剣そのものなので、僕はひどく責め立てられているような気分になった。

「やらないよ。そんな気力はない。サッカーとか、どうでもいいよ」

 思い出したくない過去が、頭の中を巡る。

 僕の足はもう動かない。怪我はすっかり完治していて、歩行だって何の問題もない。

 しかし、あの時のトラウマは拭い切れていない。悲しみはハエのように纏わり付き、僕を未だに苦しめる。だから、サッカーとできる限り距離を取っているのだ。

「そっか……変わったね、石野君」

 泉さんはどこか儚げな顔で笑う。その笑みには懐かしさと切なさが浮かんでいて、僕は落胆せざるを得なかった。泉さんとの約束を果たすことのできなかった悔恨が、沸々とよみがえってきたからである。こんな表情をさせてしまう怠惰な我が身にも、ひどく苛立ちを覚える。

「変わらないね、泉さんは」

 僕がそう言うと、泉さんは一瞬、ほんの少し眉間に皺を寄せたような気がした。

「じゃ、帰ろうか、鈴。石野君、コーヒーもケーキも美味しかったよ」

「おかわりは無料だが、もういいか?」

「うん、大丈夫。ごちそうさまでした」

 泉さんはエナメルバッグを肩にかけて立ち上がる。

「もう帰っちゃうの? コーヒー飲み放題らしいよ。牛乳飲み放題らしいよ?」

「別に牛乳は飲み放題じゃ……って、全部なくなってる……」

 沢田さんはまだ飲み足りないといった様子であったが、紙パックはとても軽くなっていた。恐らく彼女に渡す前には一リットル程度あったはずだが。

「うん。今日はお暇しようかな。それに、機会があったら、また来るだろうし」

 泉さんのその言葉に、沢田さんも「そうだね」と言って同意し、エナメルバッグを持って立ち上がる。

 僕はレジ前に促して、彼女たちから代金をもらう。

「でもまさか、同級生がやっているお店だとは思わなかったね、ゆっきー。こりゃここに通っちゃうかもね」

「沢田さんはブラックコーヒー飲めるようになってから来てくれ」

 真っ白な歯を見せて笑う沢田さんに僕は釘を刺す。彼女に通われたら、牛乳が何本あっても足りなくなってしまう。

 泉さんと沢田さんは礼を言って、退店した。僕の肩にどっと疲れが圧しかかった。

 にしてもまさか、泉さんが同じ学校に通っていたとは、幸か不幸か全く気付かなかった。

 でも、それは無理もない話だ。とにかく他者の言葉と姿を視界に入れないように過ごしているのだから。

 教室で誰とも話さず、部活もせず、行事にも必要最低限しか参加しない。

 僕の名をフルネームで呼べるクラスメイトなど一人もいない。僕はそういう存在である。

 沢田さんのように少し見ただけで覚えている方が稀有だ。元来、人の顔や名前を覚えるのが得意なのだろう。

 泉さんの顔が、ふと思い浮かぶ。体にほんのりと熱が帯びる。これは熱いコーヒーのせいだと考えることにして、僕は本に目を移した。

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