繚乱離宮
夕霧の中、歌が響き始めた。
落日が終わり、月はまだ上らない時刻。花園は一切の影を失っていた。薄紅とも紫ともつかない空の下、霧に抱かれた白花は仄かな色を帯びる。花ばかりではない。葉も、柵も、花が植えられたタイルも、全て薄暮の光彩に従っている。この繚乱離宮は、雲の大宮殿に似せて作られていた。飾り柵は、背の高い花々に埋もれながらも道を示し、磨かれた石畳は、たとえ花見であろうとも尊い方々の足元を汚さぬように地面の代わりになっている。技巧の庭園と呼ぶに相応しい光景だ。造花でこそないが、多種多様な花々が一様に乳白色の花弁をしているところを見ると、手が加えられていることが推察できる。霧が輪郭を溶かすから、一掴みの雲の中を彷徨う心地だ。
いくら門が開いていたとはいえ、曲がりなりにも宮殿の前庭に無断で立ち入るのは、さすがに軽率だったのではないかと、正気付いたときにはもう、来た道は霧に消えていた。この上は、私を引き寄せた歌の主を見つけなくてはならない。しかし、歌は奇妙な響き方をしている。確かに一人の声だというのに、四方から音が伝わってくるのだ。まるで、霧そのものが歌っているかのように。
三拍子の、舞踏の旋律に乗せられた声は、若く透き通っている。性の境界で爪先立ちするように、男女どちらともとれる音域だ。不安定な美声で語られるのは、目覚める前のこと。絹の揺籃の中、光を知らぬ蝶の翅。庭の蕾はまだ、朝露を身の内に受け入れない。すべて白色の闇に在った頃、己の貌は一つきりで許された。あの目覚めの日さえ来なければ。切なげな郷愁が段々と衝動的な破滅の音色に成長していく。忌まわしい水晶の朝。大理石色の枝で砕こうか。けれど、砕いたところで……
絶唱が、花園を圧し潰した。言葉を砕いた叫びは、私の体を地面に叩きつけた。体勢を崩した時に茨を掴んだらしい。指先に痛みが走る。霧に血が舞うのが見えた。青い滴が、薄紅の景色へ不協和音となって落ちる。明瞭な景色に違和を覚えた。支配的でさえあった霧が、一点に収束していく。白い輪郭が象るのは、人の形。絹めいた髪、細い喉。庭園の花で作り上げたようなドレス。夢の内でも出会えるか分からない姫君が現れる。霧の御子だ。雲の女王の最愛の人形が、倒れた私の腕を取る。血濡れた指を唇に当て、紅のように引いた。口付けと呼ぶには無造作な仕草を、どう理解すればいいのか分からなかった。薄塗りの青は地色が透けて、ひどく暗い色だ。待っていたと霧の御子は言う。どうやら歌に誘われたのは偶然ではないらしい。染めた唇よりも深い藍色の瞳を細めて、目元だけで嗤う。水晶の朝を砕いても、俺は元から二つに割れた貌しかない。でも、貴方は違うんだろうと、御子は言った。姫はもういない。皮肉家な青年の姿をした霧人形は、不吉なほど黒い服を纏う。不穏な空気に、目を閉じるか、耳を塞ぐか、私は迷った。一瞬の差が、命とりだった。
あの人は、
傷一つない長い指が、血染めの口を拭った。藍から紅へ色を変える様は、ひどく艶めかしいが、それどころではない。人形も、私の心は理解しているようだ。口の片端で嘲笑い、夜霧へと同化した。もう月が昇り始めている。立ち上がり、銀色に照らされる道を歩き始める。手酷い失敗をしてしまった。旅の行く先が定められてしまうなんて。けれど、言う通り手遅れだ。諦めて、月と共に南へ行こう。
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