生名樹

 生名樹せいめいじゅの虚は、人ひとりを優に飲み込む広さだ。

 真昼の日差しに晒された樹洞は、ひどく乾いている。大理石色の樹皮は、滑らかに人の手を誘うようでいて、はっきりと特有の凹凸が刻まれている。雲の大宮殿への道を逸れ、草原の中に唐突に現れるこの大木の正確な年齢は、誰も知らない。知られていることは、樹皮の溝は文字と同じ形をしており、今生きている者の名前が読み取れるという事。刻まれた名を傷つけられれば、その名の持ち主も損ねられてしまうという事。その二つだけだ。

 眼前で、一つの名前が緩やかに崩れていく。誰かが生を全うしたらしい。そよ風に髪先が揺れる様に、字はしなり、つながり、一つの円となり、ねじれた。螺旋の刻印は音もなく組み換えられる。清冽な昼の光が無ければ、この旋回に気づかなかっただろう。おかげで、巨樹の肌で行われる見知らぬ名の弔いに立ち会えた。停止した螺旋はほどけて、違う名前となる。今この瞬間に、誰かが生まれたのだろう。新しい名を私は目で覚えた。書くのはやめておく。もしも私がこの名前を憶えていて、そしてその名の持ち主に出会うことが出来たら、面白いと思う。

 虚の更に奥へ行くと、もはや目視で確認することは出来ない。指の腹で木肌をなぞり、探す名があるかどうかを確かめるしかない。樹皮を傷つけないように、否、樹皮で傷つかないように、手を伸ばす。思っていたよりも冷たく粗い感覚に唇を結んだ。縦に、横に、或いは弧に巡らされた多くの名を皮膚で読み取る。懐かしい綴りの上を通り過ぎたとき、私は小さく息を吐いた。あの人は、まだ生きているらしい。行き止まりになったところで、指を離した。

 樹洞を出ると、一日の中で一番高い日差しが瞳を貫いた。眩しさに顔を掌で軽く隠せば、指先の変化がいやでも目に入る。二本の指が青く染まっているのだ。樹皮で出血したのかと焦ったが、痛みはない。つまり、誰かの血を拭ってしまったのだ。数か所ほど質感が他と異なる場所があったから、あの時に付着したのだろう。考えている内に、光に目が慣れてきた。手を降ろし、少し俯いて歩く。十歩も行かないうちに、一人の女性とすれ違い、低く会釈する。相手も長い裾を揺らしながら返礼する。淑女の仕草だ。低い目線故に、彼女の手元がよく見えた。布に埋もれる様な華奢な手は、意外にも勤勉に骨ばっている。肌も爪もよく手入れされているが、指先が酷く荒れていた。傷が塞がらないうちに粗いものに触れたらしい。青黒い線が引かれた指の腹からは今にも血が滴りそうだ。顔を見る前に、淑女の姿は生名樹の虚へと消えていった。

 もう一度、己の指を見る。あの人の名を確かに読んだ指。彼女の指は、まだ名前を見つけられないのだろうか。それとも、見つけたからこそ、傷つくほど繰り返しているのだろうか。慈愛か、悲哀か、或いはそれ以外か。いずれにせよ、それほどの激情が天界にまだ在る事に、安堵を覚える。我々はまだ、人であることを許されているのだと。青い指を握り締め、私は街道へと戻った。

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