第65話 お隣さんと一歩を踏み出す①

 目蓋を開くと、やけに薄暗い空間が広がっていた。


 勉強会は一体どうなったのか――人の声は全く聞こえず、ただ静寂が広がっている。


 それに、寝起きとはいえやけに意識が鈍い。


 そんな不思議な感覚の中、しばらくジッとしていると、ガチャリとリビングの扉が開く音がした。


 恐らく紗夜だろう。


 徐々に足音が俺の方に近付いてくる。


「あ、颯太君。やっと起きたんですね」


「あぁ……ってか、何か良い匂いが……」


 床に座ってソファーを背もたれ代わりにする俺の右隣に腰を下ろした紗夜から、花のような甘い香りが微かに香ってくる。


 すると、紗夜がクスッと笑みを溢した。


「今、お風呂に入ってきたところですから」


「そっか……」


 小首を傾げる紗夜が妙に色っぽく見える。


 部屋が薄暗く、他のものはほとんど見えないのに、不思議なことに紗夜のことだけはハッキリと視認出来る。


 というか、まだ夕食を食べていないのに紗夜が風呂に入っている不自然さにも、不思議と南夫疑問も抱かなかった。


「ってか、電気付けないのか?」


「そうですね。目が良くなってきたとはいえ、この暗さだと颯太君のシルエットを見付けるので精一杯です」


「なら――」


「――でも、このままで」


 紗夜はそう言って立ち上がると、ワンピース型のパジャマのボタンを上から順にゆっくりと外し始めた。


 一個外れるごとに、俺の鼓動が加速し、理性が緩まっていく感覚に襲われる。


 一体何をしているのかわからないが、今すぐ止めなければ。


 しかし、なぜかこんなときに限って声が出なくなり、身体も動かなくなった。


「明かりがあると、恥ずかしいですから……」


「――ッ!?」


 そう言って紗夜が最後のボタンを外すと、留まる力を失ったパジャマが、重力に従ってバサリと床に落ちる。


 やばいやばいやばいやばいやばい――ッ!!


 声が出ない。身体が動かない。でも、視線が離せない。


「どうしたんですか、颯太君? 怖いですか?」


「……っ!?」


 紗夜が俺の身体を跨いで腰を下ろす。


 妖艶な微笑みを浮かべた、生まれたままの姿の紗夜が目の前にいる。


 紗夜は俺が戸惑っているのを見て笑みを溢すと、耳元で甘く囁いてきた。


「(我慢、しなくて良いんですよ……?)」


 そう言われ、伸ばし掛けそうになる手を、俺はまだ僅かに生きている理性で必死に抑える。


「(なかなか、強情ですねぇ)」


 小悪魔な微笑みを浮かべた紗夜は、そう言うと自分の座っている場所――俺の脚の付け根辺りに注意を促す。


「(でも、身体は正直なんですね?)」


「……ッ!?」


 これ以上は本当にマズイ。後戻りが利かない。


 俺は動かない身体に鞭打って、紗夜を退かそうと手を伸ばす――――


「――たくん。颯太君?」


 目の前の紗夜ではない――直接頭の中に別の紗夜の声が響いてくる。


 それをきっかけに、徐々に景色が白熱していき、遠ざかっていく。


「さ、紗夜……」


「はい?」


 目蓋を開けると、きちんと明かりの付けられたリビング。


 寝ている間に勉強会は終わったようで、鈴音や周の声はしない。


 紗夜の格好も学校の制服のままであることから、一つの結論に至る。


「良かった……夢か……」


「夢を見ていたんですか?」


「ああ……って、何だこのアングル……」


 寝起きで胡乱としていた意識が鮮明になったころに、視界に映る紗夜の顔の角度がおかしいことに気が付く。


 下から見上げているかのような――いや、実際に見上げているのだ。


「えっと、その……二人きりでしたので、膝枕しても良いかなって、思ったんですが……」


 紗夜が恥じらう表情を見せ、俺の頭の下のものがモゾッと動く。


 起きたらこの謎展開。


 ああ、なるほど。


「この感じは……なるほど。また夢か」


「ち、違いますよ! これは現実ですっ!」


 紗夜はそう言って優しく俺の頬を摘まんで引っ張る。


 ちょっぴり痛い――が、なるほど。確かに現実だ。


「こりゃまた随分と幸せな現実だな」


「私も幸せですよ」


 紗夜はそう言って微笑むと、俺の頭を優しく撫で始めた。


「しかし、少しうなされているようでしたが、怖い夢でも見たんですか?」


「あ、あぁ、ん~。まぁ、怖い、かな?」


「何だか煮え切らないですね?」


 どんな夢だったんですか? と紗夜が顔を覗き込んでくるので、俺は視線を逃がした。


「何か、よく覚えてないな」


 嘘です。

 二度と忘れられないくらい鮮明に覚えてます。


 このまま、誤魔化し通してやると思ったが――――


「私が出てくる夢だったんですよね?」


「えッ!? 何で知ってるッ!?」


 まさか紗夜は、本当に人の心が読めるのではないだろうか。


 それならば、これまでの洞察力にも納得がいくのだが、どうやらそうではなかったらしい。


「颯太君が、寝言で私の名前を呟いていましたので」


「うわぁ……」


 やってしまった。


 呟いたのは果たしてそれだけなのだろうか。


 もし、夢の内容に直結するようなことを呟いていて、紗夜はそれをわかった上でこうして聞いてきているのだとしたら……誤魔化すのは得策ではなく、素直に話すべきか。


 いや、本当に知らなくとも、俺はこの罪悪感をどうにかしたい。


 あんな夢を見てしまったということは、少なからず俺の中にそういった欲望があるわけで、夢の中とはいえ、紗夜にあんなことをさせてしまったのが非常に申し訳ない。


 紗夜に話すことで贖罪しょくざいとなるなら、腹を括ってそうするか。


「わかった、話すよ……」


 俺は紗夜の太腿から頭を上げ、紗夜の隣に座り直した――――

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