第56話 お隣さんのチョコは想い①

 紗夜と一緒にマンションまで帰ってきた俺は、いつものように一度自宅に戻って着替えてから紗夜の家に合鍵で入る。


 扉を開く前に、二回ほどノックして、急に入ってきてビックリ! などといった事態をなくす配慮も忘れずに行った。


「お邪魔するぞ――って、何で玄関で待ってんだ?」


 扉を開け中に入ると、そこには相変わらずお手本のように美しい姿勢で正座している紗夜がいた。


 紗夜がいちいち玄関まで来なくていいように合鍵を貰っているのに、これでは合鍵で入ってきた意味がほとんどないではないか。


「いらっしゃい颯太君。では、これを付けてください」


「自然に俺の質問をスルーしたかと思ったら、なぜタオル?」


「それで目隠ししてください」


「えっと、すまん。話が全く見えないんだが……」


「話はもともと目視できるものではありませんよ」


 良いから早くしてください、と穏やかな声で紗夜は俺にタオルを手渡してくる。


 一体何をされるのだろうかとしばらくそのタオルをジッと見詰めていたが、このままmここに突っ立っていてもらちが明かないし、何よりタオルを差し出してきてる紗夜の腕も疲れてしまう。


 俺は仕方なくタオルを受け取り、目元を覆うように頭に巻き付けた。


「何も見えねぇ……」


「ようこそ私の世界へ」


「いや、お前全盲じゃなかっただろ」


「暗いところでは、本当にそんな感じですよ」


「なるほど」


「さぁ、私の肩に掴まってください」


 俺がゆっくりと前に手を伸ばすと、紗夜がその手を掴んで、自分の肩へと誘導してくれた。


「では行きますね」


「いつぞやの視力障害研修みたいなやつを思い出すな……」


 小学校のときだっただろうか。


 アイマスクを付けて、何も見えなくなった状態で学校の廊下や階段を歩いたりする研修があったのを覚えている。


 そんな思い出を掘り返していると、どうやらリビングに到着したらしい。


 俺をソファーに座らせた紗夜は、「もう取って良いですよ」と言って俺の右隣に腰掛ける。


「んじゃ、外すぞ――って、おぉ……!」


 タオルを外して、リビングテーブルを見ると、そこにはカットされたガトーショコラが、フォークと一緒に小皿に乗せられて置いてあった。


 二つずつあるので、俺と紗夜の分だろう。


「いざこうして言うと気恥ずかしいですが……私からの、バレンタインチョコです」


「す、凄いな紗夜! え、もしかしてコレ……」


「はい、私の手作りです」


「流石料理上手。美味しそう……」


「まだ夕食まで時間があります。どうぞ遠慮なく召し上がってください」


「では、頂きます」


 俺はフォークを取り、ガトーショコラの先端を一口大にカットしてから口に運ぶ。


 ガトーショコラ特有のしっとりとした質感に、チョコレートの深い甘さ。この微かにビターな感じが、一層上品でちょっぴり大人な味を作っており、食べたときの満足感が絶大だ。


「ど、どうですか?」


「今まで食べたことのあるどのガトーショコラより美味い」


「う、嬉しいですが、流石に誇張しすぎでは?」


「いや、マジで」


 客観的に評価すれば、やはりプロが作っているケーキ屋のガトーショコラの方が美味しいのだろう。


 しかし、今回評価する立場にあるのは俺であって、俺の主観でしかない。


 紗夜が俺のために作ってくれたガトーショコラというそのお菓子は、俺にとって何ものにも優先される美味しさなのだ。


 ただ、客観的に評価しても、コレはケーキ屋顔負けの仕上がりになっているだろう。


「ありがとな、紗夜。本当に嬉しいぞ。泣きそう」


「えへへ、喜んでいただけて何よりです。もし泣くなら、胸くらい貸しますよ」


「いや、それはちょっと恥ずかしくて死ぬと思うから、ひっそりと泣かせていただくわ」


 二人でクスッと笑いながら、ガトーショコラを食べ進めていく。


「そういえば、ガトーショコラとフォンダンショコラの違いって何なんだろうな」


 そういえば昔から地味に気になっていたことを思い出す。


 いくらでも調べる機会はあったのだが、そうまでして知りたいことではなかったと言うやつであるが、今こうしてガトーショコラを食べていると無性に気になってきた。


「一言で言うと、ケーキの中のチョコレートが溶けるかどうかですかね。フォンダンショコラのフォンダンは“溶ける”という意味です」


「詳しいな」


「実は、ガトーショコラ作るときに色々調べたので、それで」


「なるほどな。てっきりフランス語にも精通してんのかと思った」


 紗夜は笑いながら「まさか」と言って、残りのガトーショコラをパクッと口に入れた。


 俺もそれを見ながら、ちょうど食べ終わったところだ。


「そういえば、バレンタインにチョコを渡すのって日本固有の文化だったんですね」


「ああ、らしいな。元々は、好きな人に何かプレゼントとか手紙を贈る日……みたいな感じだっけ」


 それがなぜ日本ではチョコを送ることになったのか、気になるところではあるな。


「まぁ、そんな日にチョコを貰えた数とかで競ってる男子を見ると、何かなぁ……」


 そして、そういうことをやっている奴に限って、本命チョコは貰えないのだ。


「義理だとしても、くれた人に感謝を忘れてるんだよ」


「それはその通りですが、私を拝まないでくださいっ」


「こう、感謝を伝えてるんだよ」


「も、もう充分伝わりましたから!」


 紗夜が俺の合わせていた手を解いてくる。


「でも、単純に数だけで競うというのは不思議ですよね」


「ん、どういうことだ?」


「だって、十個チョコを貰った方が一個しか貰えなかった人より勝ってる、ということになるわけですよね?」


「まぁ、そうだな」


「もしその一個が本命だったら、勝敗は逆転すると思いませんか?」


「ああ、確かに」


「私は、十個の義理チョコより一個の本命だと思ってます」


「名言だな。皆に聞かせてやりたいくらいだ」


 確かに、もし競うとするならば、単純に形としてある個数を比べるのではなく、そこに込められた想いを考慮すべきだ。


 バレンタインでみんなやってるからという理由で渡された無数のチョコと、バレンタインで意中の人に渡すために想いを込めて用意したチョコ。


 どちらに天秤が傾くかは明白だ。


「まぁ、そういうことで競うべきではないと思いますけどね」


「同感だな」


「でも、今このときだけその考えを曲げて言うなら、颯太君は勝ち組、ということになるのでしょうね」


「あぁ、一人は男子だが合計で三つ貰ったしな。それに、紗夜のガトーショコラ凄く美味しかったし」


「そ、そういうことではなくてですね……」


「ん?」


 口籠る紗夜に視線を向けると、みるみる顔を深紅に染め上げていた。


 そして、手近なところにあった正方形のクッションを胸に抱いて、顔の下半分を埋めて隠す。


 何やら物凄く恥ずかしがっているようだが、理由はさっぱりわからない。


「お、おいどうした?」


 尋常じゃないほどに紅潮しており、耳まで真っ赤だ。


 しばらく紗夜は黙り込んだまま、目蓋をギュッと閉じていたが、何かを決意したように瞳を開く。


 微かに潤んだ瞳は真っ直ぐと俺に向けられていて、クッションを握る手にギュッと力が入り、しわが出来る。


 そして、クッションで若干籠った声で、紗夜が口を開いた。


「そのガトーショコラは……本命、です……」


 耳を疑う言葉に、俺の頭の中は白熱した――――

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