第52話 お隣さんは譲れない②

 紗夜が真剣に向けてくる榛色の瞳には、ジワリと涙が浮かんでいた。


 街灯の明かりを乱反射して、紗夜の揺らぐ瞳を一層際立たせている。


 そして、夜の静けさの中に、紗夜の微かに湿った声が響く。


「鈴音さんより私の方がずっと長く颯太君と過ごしているのに、まだ私の知らなかった顔を、見せてくれなかった表情をっ……どうして会って少しの鈴音さんに、私より先に見せちゃうんですかぁっ……」


 ポン、と紗夜の力のない柔らかなパンチが胸に届く。


「ずるいっ……私が颯太君のことを一番知ってるんやもんっ……! 他の誰にも取られたくないっ……!」


 今度は、紗夜の小さな頭が俺の胸に当たった。


 別に抱き付かれたわけじゃない。


 紗夜がただ、僅かに俺に体重を預けて、頭を乗せてきただけ。


 それでも、絶対に俺を離そうとしない強い意志のようなものを感じられた。


「紗夜。動揺して方言出てるぞ……?」


「うるさいです」


「こんなとこ誰かに見られたら変な誤解されるぞ」


「誰もいません見てません。誤解されたらされたで別に構いません」


「いや、構えよ……」


 俺はそっと紗夜の背中と腰に手を回し、優しく抱き寄せた。


 紗夜の身体が一瞬微かに強張ったが、すぐに慣れたのか緊張が解ける。


 自分でもかなり大胆なことをしてしまっている自覚はある。


 しかし、不思議と冷静でいられた。


 腕の中にある紗夜の細い身体は精緻に装飾されたガラス細工のように、ギュッと抱き締めれば壊れそうだが、かといって抱き留めなければ儚く散っていく花のようだ。


 やはり男性の身体とは違い、全体的に柔らかい感触。

 線は細いくせに、女性であることを物語っている弾力はしっかりとそこにあり、微かに香ってくる仄かに甘い匂いがすでに慣れたものに感じてしまうのが、やけにくすぐったさを覚える。


 紗夜が嫌がる素振りを全く見せず、されるがままになっているので、俺もそれに甘えてしばらく互いの体温を感じ合っていた。


 紗夜が少し落ち着きを取り戻したころに、俺は口を開いた。


「最初の質問だけどな」


「……どっちが大切なんですか」


「どっちも大切」


「……二股です」


「友達に二股とかないだろ。それなら俺より友好関係広いであろう普通の人達は何股してんだよ」


 そういうこと言ってるんじゃないです――言葉はなかったが、紗夜の方からも俺の腰に手を回してきて、そんな意味を受け取った。


「ま、何と言われようがそれが俺の答えだ。紗夜も神崎も大切な友達だ。俺は友好関係こそ狭いが、友人は大切にするタイプなんでね」


 広く浅くでなく、狭く深くってやつだ、と付け加えると、紗夜に「狭すぎるのも考え物ですけどね」と痛いところを突かれる。


「でも、一つ確かなことがあるぞ」


「何ですか」


「神崎は俺にとっても大切な友人。でも、紗夜。お前は友人であると同時に“隣人”だ」


「ご近所ということですか」


 ほんの少し拗ねたような声色。


 違う、という意味を込めて、俺は一呼吸置く。


「確かに最初は家が隣ということで始まった隣人付き合いだ。だが、今は違う。俺の隣にはいつも紗夜がいて、紗夜の隣には、その……俺がいるというか、いたいというか……」


「……」


「と、とにかく、ただのお隣さんじゃなくて、俺と紗夜だけの隣人付き合いなんだよ……」


「それは、一般に言う隣人付き合いとは違うんですか?」


「ああ、違う。特別な、隣人付き合いだ」


「特別……」


 紗夜はその言葉を噛み締めるように沈黙する。


 そんな紗夜の頭に、俺は片手を乗せ、軽く上から顎を置いた。


「紗夜も神崎も友達としては同じくらい大切だ。でも、紗夜は……俺の中で特別な存在なんだよ……」


 頭を持ち上げて俺の表情を見てこようとする紗夜だが、俺はそんな紗夜の頭を押し止める。


 今の俺の顔なんて、見せられたもんじゃない。


「そ、颯太君重いです……」


「我慢しろ」


 ――直接的な表現は出来なかった。


 もう俺は、紗夜に対して抱いているこの感情の正体に気が付いているのに、どうしてもそれを口にすることが出来ない。


 中学の頃の出来事が、どうしても脳裏にチラつく。


 でも、その中で紡げる精一杯の俺の本心を今、紗夜に伝えたつもりだ。


 少し前の俺なら、自分の感情に見て見ぬ振りをしていたことだろう。


 だが、それだといつまで経っても前を向けないことに気が付いた。


 “過去”を見るばかりで“今”すら見えない。


 内容は違えど、俺と同じように過去に辛い経験をしている紗夜の方が、よっぽど“今”が見えていた。


 俺もあんなクソったれな過去に、いつまでも囚われるのは止めよう――“今”ここにある関係を見よう。


 紗夜が俺の言った“特別な隣人”をどういう意味で解釈するかは自由だ。


 だが、俺は今口に出来る最大のクオリティの言葉で、どうにも複雑に考えてしまうこのシンプルな感情を伝えた。


「……颯太君」


「何だ?」


「私は、これからも颯太君の“隣人”でいます」


 紗夜の言う隣人が、俺の思う“隣人”と同じ意味なのか――それを確認するには、今一つ過去と完全に決別する勇気と覚悟が足りなかった。


 でも、今はまだそれで良い。


「このポジションは、誰にも譲りません」


「そうか」


「……それより、颯太君」


「ん?」


「寒いですね」


「そりゃ冬だし夜だからな」


「離れたら寒いので、もう少しこうしていても良いですか……?」


 俺の後ろ腰に回された紗夜の腕に力が入り、ほんの少しだけ強く抱き付かれる。


 身体の前面が、ほとんど紗夜と密着している。


 ……俺の心臓の鼓動。絶対紗夜に聞かれてるだろうな。

 まぁ、今更隠しようもないんだけど。


「……ご自由にどうぞ」


「では、ご自由にしますね」


 どこまでも静かな夜。


 淡く灯る街灯の下。


 俺と紗夜は、しばらくの間、抱き合っていた。


 紗夜はどうかは知りようもないが、少なくとも俺は、全然寒くなかった――――

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