第27話 お隣さんと初詣①

 海の底から海面に浮上してくるかのように、意識が現実世界に引き戻されてくる。


 この感覚に、俺は今まで自分が寝てしまっていたことに初めて気付く。


 確か、紗夜と名前で呼び合おうという話になったあと、紗夜がお茶を出してくれて、二人で何となくテレビを観て過ごしていたはずだが……


 ……テレビの音がしない。


 寝起き特有の胡乱とした意識の中で、重たい目蓋を持ち上げると、確かに目の前のテレビは消されていた。


 それを確認すると同時に、右肩に何やら重みを感じる。


 その正体をほぼ直感的に理解し、曖昧だった自分の意識が一気に鮮明になった。


「お、おい……」


「すぅ……」


 潜めた声で話し掛けても紗夜の寝息が途絶えることはなかったので、仕方なく紗夜の身体を揺する。


「紗夜、起きろ」


「んぅ……」


「頑張れ。睡魔に打ち勝つんだ」


「うぅん……」


「……起きないとイタズラするぞ」


「……っ!」


 紗夜の身体がビクッと強張った。


 反応を示したということは意識はあるのだろう。

 しかし、若干眉を寄せて目蓋を閉じたまま、寝ているフリを続けている。


 一瞬、本当に何かしてやろうかとも思ったが、残念ながら俺にそんな甲斐性はない。


「はぁ。いつまで寝てるフリを続けてるつもりだ?」


「……イタズラするんじゃなかったんですか?」


「出来ると思うか?」


「出来るんじゃないですか? 警察のお世話になることと引き換えなら」


「それをわかっててする奴は、本物の犯罪者だよ」


「でも、この状況で何もしないのはヘタレとも言えませんか?」


「節操を持ち合わせていると言ってほしいな」


 すっかり目が覚めた紗夜は、腕を組んで一度大きく伸びをする。


 服がグッと引き伸ばされ、紗夜の出るところは出て閉まるべきところはきちんと引き締まったボディーラインが露わになる。


 見てはいけない気がして、俺は反射的に目を逸らす。


「ってか、起こしてくれればよかったのに。何で紗夜も一緒になって寝てんだよ」


「颯太君の気持ちよさそうな寝顔を眺めていたら、私もいつの間にか寝てしまっていました」


「眺めるなよ……」


 というか、紗夜が視認できる距離は限られている。

 となると、俺の寝顔を眺めていたということはかなり至近距離だったということか。


 想像したら、心臓が潰れてしまいそうなのでやめておこう。


「前にも言っただろ。紗夜は少し無防備すぎる……」


「私の家で無防備に寝ていた颯太君にだけは言われたくないですね」


「返す言葉もございません」


「颯太君」


「なに――って、紗夜っ!?」


 紗夜が突然俺の膝の上に頭を乗せて見上げてきた。


「無防備って、こんな感じですか?」


「ちょっ……おまっ……」


 頭が真っ白になる。

 恐らく顔は真っ赤だろう。


 部屋の照明を反射した紗夜の榛色の瞳が、まっすぐこっちを向いている。


 俺の気のせいだと自分に言い聞かせても、どうしてもこの紗夜の瞳が何かを期待しているように見えて仕方がない。


 勢いを増して早打ちする心臓の音がやけに大きく聞こえる。


 そろそろ羞恥の限界で死にそうになっていると、紗夜の顔も真っ赤に染まっていることに気が付いた。


「……恥ずかしいなら無理にするなよ」


「う、うるさいですっ!」


 紗夜が手で俺の視界を塞いでくる。


 そして、勢いよく上体を起こすと、そのまま立ち上がって胸の前で両手をギュッと握っていた。


 どうして紗夜が急にこんなことをしたのかはわからないが、完全に自爆した紗夜が少し面白くて思わず吹き出してしまった。


 笑わないでくださいっ、と紗夜に怒られるが、こういうなんでもないやり取りがとても愛おしく思えた。


「悪い悪い。って、もうこんな時間か」


「何時ですか?」


「とっくに十二時過ぎてた」


 なるほど、と紗夜が一つ咳払いをして居住まいを正す。


「新年明けましておめでとうございます。颯太君」


 思わず見惚れてしまうほどの所作で頭を下げた紗夜。


 今時こんな行儀良く挨拶する奴はかなり珍しいだろうなと思いながら、俺もソファーから腰を上げる。


「明けましておめでとう。今年もよろしくな、紗夜」


「はい。こちらこそよろしくお願いします」


 紗夜が僅かに首を傾けて、淡い微笑みを浮かべるので、俺もそれに応えるように口許を緩ませた。


「さて、長居しすぎたな」


 そろそろ帰るわ、と伝えると、紗夜は見送りますと言って玄関までついてきた。


 その間、見送りと言ってもあまり見えませんけどね、などという紗夜の相変わらず笑えないネタは無視しておいた。


 俺は靴を履き、玄関扉に手を掛ける。


「んじゃ、またな。おやすみ」


「あ――」


 服の裾を紗夜が引っ張ってきたので振り返るが、引き留めた張本人が戸惑っていた。


「どうした?」


「いや、えぇっと……」


 何度か瞬きして視線を泳がせる紗夜。


 俺が紗夜の言葉を黙って待っていると、紗夜は俺の服の裾を摘まんだまま視線を逃がして口を開いた。


「颯太君は、初詣とか行く人ですか……?」


「まぁ、行く人だな」


「確かこの街にも神社ありましたよね」


「あるな」


「えっと、私も初詣行く人なんですけど……その、神社までの道のりがわからなですっ!」


 物凄い覚悟を決めて言ったような視線をまっすぐ向けてきたが、その内容が道のりがわからないですとは、流石に笑ってしまった。


「な、なんですか」


「いや、すまん。ちょっと可笑しくて」


 本当にわからないんです! と紗夜はまるで念を押すように言ってくるが、俺は別に疑ってはない。


「んじゃ、俺が案内しようか?」


「良いんですか?」


「良くなかったら提案してないぞ」


 それに、そんなに嬉しそうな顔をされては仕方がないだろう。


「ありがとうございます。颯太君」


「お安い御用だよ」


「時間はどうしましょうか」


「俺はいつでもいいけど……午前中に行くとして、九時くらい?」


「九時ですね。わかりました」


 美澄はそう言って、摘まんでいた俺の服の裾を離す。


 そして、僅かに手を持ち上げた。


「では、おやすみなさい。颯太君」


「ああ、おやすみ」


「遅刻しないでくださいよ?」


「お前も寝過ごすなよ」


 そう言って互いにクスッと笑い合い、俺は玄関の扉を開けた。


 俺の体温が高くなっていたのか、冷たい夜の空気が心地よい涼しさに感じられた――――

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