第16話 お隣さんは看病する②
「――しろくん。津城君」
優しくて落ち着く声が耳元で聞こえる。
そんな声に引っ張られるまま、深いところにあった意識がみるみる海面に浮上していくように覚めていく。
ゆっくりと目蓋を持ち上げれば、そこには美澄の姿があった。
「あ、起きましたか? うどんを作ってきたのですが」
「ん、あぁ……ありがたくいただくよ」
重くだるい身体を起こして、あまり力の入らない脚でダイニングテーブルに着く。
すると、テーブルの真ん中に土鍋が置かれており、蓋を開ければ熱い蒸気と共に食欲をそそる出汁の匂いが立ち上った。
美澄が俺の家の食器の配置を知っているわけがないので、自分で深めの皿を取り出す。
そして、俺と美澄の分をテーブルに向かい合うように置く。
「それにしても、津城君はうつ伏せで寝るんですね。珍しくないですか?」
美澄はうどんを取り分けながら、不思議そうに、そしてどこか可笑しそうな表情を浮かべてそんなことを言ってくる。
「珍しいかどうかは知らんけど、うつ伏せは子供の頃からだな。仰向けだと落ち着かないというか」
「そうなんですね。ふふっ、子供の頃の津城君ですか~。どんな感じだったのか気になります」
「いや、ごく普通の子供だったと思うぞ」
二人で手を合わせ、「いただきます」をしてから箸を持つ。
「流石美澄だな。めっちゃ美味しい」
長ネギや春菊、ワカメといった感じの具材で、これぞ鍋焼きうどんだと思える。
この優しい甘さと柔らかな香りは、かつお出汁のものだろう。
身体が内側から温まる。
美澄は嬉しそうに「ありがとうございます」と微笑んで見せる。
正直食欲があったかと言えば微妙なところだったが、この美澄の作ってくれた鍋焼きうどんを前にしていると、自然と箸が動いて、終いには土鍋の中身が空になるまで食べていた。
◇◇◇
「これ、家からお薬と冷却シート、スポーツドリンクを持ってきたので置いておきますね」
「何から何まで……この恩はいつか返す」
自室に再び戻ってきた。
俺はベッドに座り、美澄は家から持ってきたものを勉強机の上に置く。
「いえいえ。むしろ、私が今恩を返しているような状態なので」
気にしないでください、と美澄は言うが、俺はきちんとこの恩を覚えておくことにした。
「それよりも津城君、汗掻いてませんか? 一度着替えてから横になった方が良いです」
「確かに。んじゃ、着替えとタオル……」
「タオルは私が取ってくるので、場所を教えてください」
「悪いな。えっと、洗面所に入って右手側に畳んで積んであるはず」
了解です、と美澄は一旦部屋を後にして洗面所に向かっていった。
少し目が見えるようになったとは言っていたが、それでも眼前の景色を見るのが精一杯であることに変わりはない。
美澄の家と間取りが同じでなかったら、こんな風に美澄が慣れない家の中で動き回ることは出来なかっただろう。
少しして、タオルを持った美澄が部屋に戻ってくる。
「ぬるま湯で湿らせてきたので、これで汗を拭いてください」
「お、サンキュー」
俺は美澄からタオルを受け取り、身体を拭くためTシャツを脱ぎ――――
「ちょっ……も、もしかしなくても今脱いでますよねッ!?」
美澄が真っ赤にした顔を両手で隠し、声をひっくり返しながら叫ぶ。
「え、そりゃ脱がないと拭けないだろ?」
「そ、それはそうかもしれませんが私がいるんですっ! よく見えなくても恥ずかしいですっ!」
「いや、男子の上裸で恥ずかしがるなよ……」
「男子も女子も関係ありませんっ! 男女差別は良くないです! それとも津城君は人に肌を見せたがる変態さんだったんですかっ?」
「違うわッ!」
どうやら美澄はかなり異性の肌に免疫がないらしい。
夏に学校の授業でプールがあれば一体どうするつもりなのか非常に心配ではあるが、今は取り敢えず美澄を落ち着かせた方が良いだろう。
「ま、まぁ、断りもなく脱いで悪かったよ。なら、一旦後ろでも向いててくれ。すぐに拭くから」
「むぅ……」
美澄はやや不安げではあるが、言われた通り背を向ける。
髪の毛の隙間から窺える耳の先端がやや赤く染まっているのを見ると、本当に恥ずかしかったんだなと、少し申し訳ない気持ちになる。
美澄の負担になってはいけないので、俺はその間にさっと身体を拭き、新しいTシャツに着替える。
「はい完了。美澄、もういいぞ」
「もう、次からは気を付けてください」
「なるべく次がないようにしたいけどな」
次があるということは、また俺が風邪を引くということだ。
流石に今年中にもう一度掛かるということはないだろうが、出来れば来年も再来年も風邪を引くのはごめんだ。
それにしても、このひと騒ぎでグッと体力が持っていかれたような気がする。
そんな俺に、まだ少し顔を赤らませたままの美澄は、コップ一杯の水と風邪薬を差し出してきて「これを飲んでゆっくり休んでください」と言ってくる。
一言礼を言って薬を飲み、いつも通りうつ伏せにベッドに身体を倒す。
やはり風邪のせいか、まだ昼少し前だというのに、眠気が押し寄せてくる。
しかし、寝る前にどうしても美澄に言っておきたくて、今にも沈んでいきそうな意識を何とか保つ。
「美澄」
「はい?」
「マジで今日は助かった。ありがと」
「ふふっ、どういたしまして」
今日と言ってもまだ昼ですけどね、と美澄は小さく笑いながら、ベッドの隣で膝立ちになり、俺の顔に掛かった前髪をさっと持ち上げる。
そして、いつの間にか手に持っていた冷却シートをペタリと容赦なく貼り付けてくる。
「冷たっ……! 貼るなら事前に言ってほしかった……」
「裸を見せ付けられた件の仕返しです」
「裸じゃない、上裸な? そこ間違えるとかなり俺の印象変わってくるぞ……」
美澄は可笑しそうに口許を押さえて笑い、「確かに」と納得する。
「では、津城君。何かあったら遠慮なく呼んでくださいね?」
「ああ」
まったく……頼りになる隣人を持ったものだ。
俺はつくづくそう思いながら、目蓋を閉じた。
◇◇◇
駅前の某所にて――――
「ったく、風邪だって言うからわざわざ来てやったのに……全然メッセージに既読が付かないんですけどっ!」
ゆったりとした服装の上からでもわかる、線の細い少女だ。
長く伸ばされた髪は丁寧に染め上げられた艶やかな金色で、ポニーテールにされている。
瞳は栗色で、肌は白くきめ細やか。
加えて顔も楚々と整っており、性別問わず、すれ違う人の中には思わず振り返ってしまう者までいる。
そんな少女は今、不満げに頬を膨らませながらも、不安が拭えないような視線をスマホの画面に落としていた。
「……颯太、寝てるのかな」
そう呟き、スマホをカバンに仕舞い込む。
そして、右手にコンパクトなキャリーバッグを引いて、波乱の予感と共に歩き出したのだった――――
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