第15話 お隣さんは看病する①

 美澄の制服合わせをした日から二日が経過した――――


 あれだけ泣いていたものだから美澄の精神状態がやや不安ではあったが、昨日は特に顔を合わせることがなかった。


 まぁ、もし何かあったのだったらスマホに連絡が入るなり直接訪ねてくるなりするだろうから、心配ないということなのだろう。


 と、そんな風に人の心配ばかりしている俺だはあるが、今それどころでないのは自分が一番よくわかっている。


「流石にヤバいかな……」


 頭痛いし身体だるいし悪寒がする。

 朝起きて熱を測れば、三十八度五分。


 ……風邪を引いてしまった。


 取り敢えず、これ以上酷くなる前にとマンションのエントランスまで来て、郵便受けに入っていたものを回収する。


 さて、さっさと家に戻って安静に――と、足を踏み出そうとした瞬間、フッと意識が曖昧になり、歩く感覚が失われる。

 そして、何も出来ずに重心が前に倒れていく。


「つ、津城君! 大丈夫ですかっ!?」


 前から半ば抱き寄せられるように受け止められたかと思えば、美澄の焦ったような声が聞こえてきた。


 仄かに甘く良い香りだけでなく、女の象徴たる柔らかな弾力までも身体の前面部に感じる気がするが、意識が胡乱としており現実味に欠けるせいか、あまり気にはならない。


 というか、それどころではない。


「ん、あぁ……美澄か。悪い、もたれ掛かって……」


「そ、そんなことはいいです! かなり身体が熱いし、呼吸も荒い……思いっ切り風邪引いてるじゃないですか!」


「っぽいな」


「どうして風邪なんか……って、まさか……」


「お前の想像通りだよ。昨日の突然の雨でな……」


 美澄を見習って、俺もコンビニ弁当やスーパーの総菜ばかりに頼るのではなく、自炊してみようと思い、昨日スーパーに買い物に行ったのだ。


 その帰り、予想外の雨が突然降り始めてしまった。


 すぐに身体を温めればこうはならなかっただろうが、まぁ、今こうして風邪を引いてしまっているということは、そうしなかったということだ。


「天気予報で夕方から降水確率七十パーセントだったじゃないですか。それに、思いっ切り曇ってましたし、雨の匂いもしてました」


 ……どうやら、予想外の雨でも突然の雨でもなかったらしい。


 はぁ、と呆れたようにため息を吐かれた。


 それにしても、雨の匂いとは何ぞやと非常に気になるところだ。


 美澄に尋ねれば間違いなく「えっ、私が田舎者だからわかるだけでしょうか」と恥ずかしがる顔を見られるだろうが、残念ながら今はそのやり取りをする気力がない。


 ……元気になってから聞こう。


「ま、家で安静にしとくわ……」


「ちょ、フラフラで危なっかしいです。ほら、私の肩を使ってください」


「いや、そこまでしてもらわなくても大丈夫だって」


「大丈夫な人にこんな提案しません」


 美澄は俺の左腕を掴むと、自身の肩に回して俺の体重を少し支える。


「……悪いな」


「謝られるためにやってるんじゃないです」


 エントランスで暗証番号を入力し、開いた自動ドアを通ってエレベーターの方へゆっくり向かっていきながら、美澄が少し拗ねたような声色で言った。


 確かに恩人に欠ける言葉は謝罪ではない。


 俺は若干の気恥ずかしさを感じながら口にした。


「ありがと」


「はい。どういたしまして」


 今度は鈴を転がしたような明るい声色だった。



◇◇◇



 美澄に少し身体を預けながら、三〇三号室――俺の家の前まで帰ってきた。


 俺は改めて美澄に感謝を伝えて、ここで別れる。

 そして、あとはベッドに寝て安静にしておくだけ。


 と、思っていたのだが…………


「い、いや……流石に看病までしてくれなくていいって」


 自然な流れで俺と一緒に部屋まで入ってきた美澄が、ベッドに腰掛ける俺の前に立っていた。


「津城君が風邪だとわかっていながら、見て見ぬふりは出来ません。……まぁ、実際ほとんど見えていませんが」


「……その時折挟むジョークでもし笑いが取れると思ってんなら大間違いだからな?」


 突っ込みづらいったりゃありゃしない。

 まして、美澄が視力を失ってしまった原因を聞いた今となっては余計に。


 しかし、対する美澄は「そうですか?」とよくわかってなさそうに首を傾げており、俺は苦笑いを禁じ得ない。


「あ、でもですね? もしかすると気のせいかもしれないんですが……」


 美澄は不思議そうな表情を浮かべながらグッと俺に顔を近付けてきた。


 あまりに突然のことでドキッと心臓が跳ねると同時に、体温が一気に上がった気がする。


「ほんの少しだけ、視力が戻ったような――」


「――ホントかッ!?」


 美澄の口から発せられた言葉に、俺はほぼ反射的に美澄の肩を掴んでいた。


 美澄は「ひゃっ!?」と声を漏らしたが、これで互いに驚かせたということでお相子だ。


「え、えっと、多分。前より津城君の顔がぼやけずに見えるので」


 美澄と俺の顔の距離は大体十五センチといったところだろう。


 前よりぼやけずにというのが具体的にどれくらいの視力なのか不確かだが、少なくとも変化の現れを実感出来ているのだから、視力が僅かでも回復したというのは本当なのだろう。


「そっか……」


 一気に身体の力が抜けた。


 もちろん風邪から来る倦怠感のせいでもあるだろうが、安心したというのが大きいだろう。


 美澄の爺さんは、美澄の抱えているストレスさえ緩和出来れば視力は戻ってくると言っていた。


 つまり、この変化の現れは、美澄のストレスが解消されつつあるという兆しなのだろうか。


 一体何が美澄のストレスを緩和する要因になったのか…………


 と、その先を考えようとしたとき、激しい頭痛が思考を遮った。


「わ、私の目のことはまたあとで! 津城君は横になっていてください!」


「あ、あぁ。そうさせてもらうわ」


「朝食は食べましたか?」


「いや……」


「では、私が作ります。おかゆとうどん、どちらが良いですか?」


 そこまでしてもらうのは流石に悪いと思い、俺は断ろうとしたが、美澄の表情が「病人は気なんて使わなくていいんです」と語っていたので、俺は小さく「うどん」と呟いて答えた。


「では、津城君の台所……じゃ、器具の配置がわかりませんから、うちで作って持ってきます」


「本当にすま――いや、ありがとな」


「いえいえ。隣人同士困ったときはお互い様って、いつも津城君が言ってるじゃないですか」


 そう言って美澄は、俺が渡したこの家の鍵を持って部屋から出て行った。


 玄関の扉が閉まる音と、ガチャ、と鍵が掛けられる音を聞いてから、俺は重たい目蓋を閉じる。


 体調が悪いせいか、やや早打ち気味の鼓動を感じながら、徐々に意識が深いところに沈んでいった――――

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