冷や飯喰い -6

「悪意なく私の話を聞いてくれた人間が、自分から堕ちていくのは見たくない」


 そうやって人を売って何か手に入れたところで、時間が経つほど自分の首が締め付けられていくことを私は知っているから。

 そう付け加えて、菖蒲は自分の両手をじっと見つめる。


「私の過去を知った人間は、誰も彼もが私を利用して食い殺そうとします。洪社長もそうだったでしょう? 吾川くんの知らない人間を含めれば両手じゃ収まりません。七年です。七年も憑路に通い続けて、君だけだったんです。私の過去を、本当に悲痛な顔で聞いてくれたのは」

「……それも、あくまで自分の目的のためです」

「ええ。あわよくばあの場で憑路の情報をありったけ搾り取ろうとしていたんでしょう?」


 気づいていた。

 結弦が迷いながらも少しずつ進めていた計画に、菖蒲はうっすらと気づいていた。それでもなお、結弦との関係を望んだのは。


「今日こうして計画を実行に移す段になっても、私を巻き込まないように考えてくれた。私は、それを忘れたくない」

「それ、は」

「もし間に合うなら引き返してください。一度過去を変えたなら、憑路はあなたを食らい尽くすまで離しません」


 それはまるで、言葉の毒針を打ち込むように。

 氷塊に打った小さな楔が、大きな亀裂を生むのを待つかのように。その亀裂が口を開いた時、そしてそれを埋めたいと思ったその時、結弦は憑路の力の誘惑に抗う力を失う。


「七年前、どうして憑爺は姉だけを拐って私を現世に返したと思う? 私たちは所詮子供、その気になればふたりとも自分のものにすることもできたはずなのに」

 考えるまでもなく、回答は結弦の頭に湧き出した。

「……四条先輩が、残された菫さんを探しにくると分かっていたから。大人になって、力をつけてから」


 自分で口に出してみて、その実に単純かつ悪辣な手練手管に背筋に汗がにじむ。

「憑路で戦うために、たっぷりと『食えるもの』を蓄えて。それを待ち構えて食うのが憑路というこの土地です」


 リスクは承知していた。

 相手を信用など微塵もしていない。油断すれば食われると思い、細心の注意を払っていたつもりだった。だが未来に渡って心を蝕むことなどどうして予想できようか。


「……でも、月島会長を売れば過去を変えられるのも事実です」

「……」

「結局、選べるのは吾川くん。君だけですよ」


 菖蒲の言葉に、ほんの一呼吸の間を置いて。


「……間に合い、ますか」


 結弦は、そう言った。


「間に合いますよ。食べてないものにお金を払うことはないんですから」

「そう、ですか」


 ここまでの会話を、夜乃は黙って聞いていた。ただじっと、ふたりを見つめて聞いていた。

 そんな夜乃に、菖蒲は向き直る。


「いかがですか、憑路の女主人。ご満足いただけましたか」


 答えはない。


「話せという条件は満たしたはずです。どうか、姉の居場所を」

「終わっておらぬ」

「はい?」

「話は、終わっておらぬ」


 意味が理解できずうろたえる菖蒲。その疑問に答えるように聞こえたのは、夜乃の声ではなく。


「……申し訳ありません。思ったよりすばっしこい奴らで」

「カモにゃん?」


 傷。

 戦うことができないと語った少女の血は、人間と同じく赤かった。


「つまらないね。とてもつまらない」

「ああ、そうだな。あまりにつまらない」


 そんな少女を追うように。あるいは意に介さず旧友の家にでも遊びに来るように。

 自然体で現れたのは、狐面を被った二人の男。年の差があるらしく、片方は結弦たちとそう変わらない。


「憑爺……。いや、どっちが?」


 もう片方は、おそらく壮年。菖蒲が語った、姉を奪った男と同じ年の頃。


「見つけた……。見つけた!!」


 菖蒲にとって、憑爺といえば壮年の方だった。しかしいくら憑路に通えど、憑爺を名乗って現れるのは若い方ばかり。


「どういうからくりかと思っていましたが、なんてことはない。二人いたんですね」


 回答を得た菖蒲に、しかし二人の憑爺は首を振る。


「「そうではない」」


 その動作は、声は、不気味なほどに同じだった。


「彼奴らは、元は一人の人間であった」


 おもむろに口を開いたのは夜乃。微動だにしないまま、意識だけは憑爺を強く貫いている。


「憑路の力であれば、『食った歳』を売り払うことで若返ることはできる。だが、過去にそれを行った者は皆、現世に居場所を失い朽ち果てた」


 当然だ、と結弦は考える。先刻、憑爺から永遠の命という野望を聞いた時から考えてはいたことだ。

 人間の社会は常にうつろい、そして人はその流れの中で歳を取りながら生きている。その中で一人だけ若返りを繰り返せば、それは大きな流れの中で船を降りるに同じ。流浪するしかなくなり、生きていると呼べる状態ではなくなるだろう、と。


「だが彼奴は大陸の妖術を得て、一人の人間を二人に分けたのだ」

「ご紹介どうも、憑路の女主人」

「そのとおり、親が若返って子を名乗り、代わりに子が親を名乗る。そうして入れ替えながら、我々は脈々と生きてきた」


 一人の人間が自分だけ代替わりをくり返す。それにより、居場所を自分だけで引き継いでいくことが可能になったのだと、若い方が自慢げに言う。

 しかし、と年上の方が言葉を継ぐ。


「どうやら、憑路の女主人は我々のことを快く思っていないらしい」

「……当たり前だ。そんな人間、憑路どころか世界の秩序に反してる」


 何よりも。その影には、歳を『食わされた』人がいるのだ。その犠牲の上に、この二人の永遠の命は成り立っている。その事実に気づいて、菖蒲は息を呑んだ。


「……まさか、お姉ちゃんは」

「ああ、君と一緒にいた娘か。彼女にはそうだなぁ、たしか五〇年分ほど食べてもらったかな」

「だいたい六十歳だった当時の僕が、それで一〇歳。それから七年経って、今こうして生徒会長をしているわけだ。いやぁ、やっぱり若い体はいいね……なんて言っても、歳を食ったこともない君たちには分からないか」


 高笑い。何がそんなに楽しいのか、二人揃ってただただ笑う。


「お前ら……!」

「おっと、手荒なことはしない方がいい」


 思わず身を乗り出した結弦を、年下の方が見慣れた仕草で制止した。


「洪といったかな? あの男がなぜ捨て駒を使うことにこだわったと思う?」

「最初に言ったろう? 憑路は市場。売って買われることはあっても、とって食われることはないと。人を殺すのはご法度で、それを定めたのは他でもないその夜乃さ」

「もっとも、今の僕らのうち片方は幻術なんだけどね。どうせなら空振って『えっ、幻!?』って顔も見たかったなぁ」


 それだけ言って、二人の姿がかき消える。後に残った声が、影もなく闇の中を飛び交う。


「だから、これは宣戦布告だ」

「僕らを殺さずに殺してみせるといい。それができなければ、僕らは永遠に憑路の主人の座を狙い続ける。永遠を生きて無限に試行すれば、それは一〇〇%だ」


 残響が消える。戻ってきた静寂の中、最初に口を開いたのは夜乃だった。


「これが、話である。吾川結弦と四条菖蒲が話すことで始まるモノ」

「もしかして、実りある結果、って」

「あの二人の心の臓を、現世で狙え。さすれば四条菫について全てを明かそう」


 現世で殺せない菖蒲を、誰かが憑路で殺そうとしたように。

 憑路で追えぬ憑爺の命を現世で追えと、夜乃はそう言った。

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