冷や飯喰い -5

「四条菫の居場所を」


 菖蒲の言葉に黙って頷き、夜乃は結弦に意識を向ける。


「吾川結弦よ」

「……はい」

「妾はすべてを知っておる。お前もそれは知っておる」

「だから何だと?」

「それも、お前の知る内にある。全てを知る者がここで聞いておること、努々ゆめゆめ忘れず語れ」

「吾川くん、話が見えませんが、状況が状況です。すべて聞きますから話してください」

「本当ですか。本当に、すべて聞きますか?」

「必要ならやります。洪(ホン)社長と同じようで癪ですが」

「それが、もしも。いえ、本当に俺が」

「吾川くんが、なんですか」


「自分のために月島を売り払おうとしていたとしてもですか」




    ◆◆◆




 両親が死んだ日のことを、六歳だった結弦はよく覚えていない。

 高速道路で飲酒運転のトラックに突っ込まれたと聞かされた気がする。少なくとも、警察の人に阻まれて遺体を見られなかったのは確かだ。ジッパーのついた分厚い袋に包まれた『何か』が放つすえた悪臭だけは今も鮮明に記憶されている。

 両親の葬式で、誰かが持ってきた黒い服を着せられて人形のように座っていた結弦は、深夜になってから伯父のレンタカーに乗せられた。それまで大人たちの怒鳴り合う声が聞こえていたのに、急に静かになったのは、どうやら自分の行き先が決まったかららしいと子供ながらに察した結弦は、何も言わずに従った。そうして生まれ育った新横浜を離れ、連れて行かれたのは福岡の片田舎。見慣れない土地、聞き慣れない言葉はまるで外国に来たようだった。

 それから中学三年までの約一〇年間の記憶には、色がない。

 何かに打ち込んだ記憶も、何かを楽しんだ記憶もない。片田舎の転校生なのだから少しは話題にもなったろうが、誰かと話した記憶すら希薄だった。

 ただ毎日怒鳴られた。

 イソウロウと呼ばれ、家の掃除と洗濯は小学生の結弦の仕事になった。物干し竿に背が届かず、無理に持ち出した脚立で窓ガラスを割った日にはガラスの修理代を盗んでこいと命ぜられた。それを拒否すると破片の上で寝かされて全身を切り刻まれ、それでも学校に行かねば近所に噂が立つと、夏だというのに長袖のセーターを来て登校した。

 その環境に、結弦は『適応』を選んだ。あらゆる理不尽をそういうものとして受け入れ、変化を望まず、両親との日々を遠い遠い過去のものとした。伯父夫婦が昼はパチンコ、夜は外食に出かけるのを見送り、家で冷たい食事を食べ続けた。

 毎日の終わりに、その日をなかったものとして眠り続けた。そうして一〇年の間、ほぼ空白だけの日々が続く。

 空欄だらけの記憶が再びポツポツと埋まり始めるのは、中学の卒業が迫った頃。伯父の家を出て県外の高校を受験すると言った結弦に渡された預金通帳から。

 ずっと上の方に記帳された保険会社の名前と、計七〇〇〇万円という数字。

 両親の命に支払われたお金だった。

 結弦が触れることを許されなかった大金は、記帳履歴を下るほど桁を減らしてゆく。最後の引き出しは一ヶ月前。

 残金、二十七円。


「中学出るまで面倒みてやったのに恩知らずが」


 そのひと言とともに、二十七円の通帳を握った結弦は県外へと投げ出された。天涯孤独の身となった結弦は、見知らぬ街でぽつりと呟いた。


「ああ。掃除、もうしなくていいのか」


 不幸中の幸いというべきか、この国は親のいない子供にはまあまあ優しかった。すでに働くことなどやめていた伯父夫婦が行方をくらましたことも手伝い、結弦は交通遺児として生活と教育を保障された。

 もう、自分を縛るものはない。

 ようやく普通の人間らしい生活を手に入れられる。

 そう思った結弦が、自分がもう『普通の人間』でないことに気づくのに、そう時間はかからなかった。


「……四条先輩は、俺のことをどう思いますか」


 薄暗い屋敷の中、黙って耳を傾ける菖蒲に、結弦は問う。菖蒲からの答えはない。


「ただのちょっと変わった後輩だと思いますか。変な奴だと思いますか」

「学校で妙な噂をたてられたことは、今のところありません。俺もそれくらいには普通になれたということなんでしょう。まだ完璧でなくても、もう少し、あと何年かかければ普通になれると思っていました。思っていたのに。なんで、こんな場所があるんですか」


 方法が目の前に現れてしまった。どうしようもないと思っていたものを、どうにかできてしまう方法が。


「四条先輩に付いて情報を集めて、確信しました。ここでなら過去ごと変えられる。何かで覆って隠すんじゃなくて、芯から普通の人間になれるって」

「だから月島を売ろうと?」


 ようやく口を開いた菖蒲に、結弦は頷く。


「『冷や飯を喰わされた』記憶を売るだけじゃダメだってことは、少し考えたら分かりましたから。一〇年間の空白ができてしまいますし。代わりに幸せな記憶を買うための差額をどう埋めるか考えて……」

「誰かに幸せな記憶を売らせて、差額に充てることにした、か」

「ええ」

「私に言わなかったのは、月島が消えれば姉の手がかりも消えるからですか?」

「父親の方を怪しんでいたようなので、大丈夫かとは思いましたが……。話すわけにはいきませんでした」

「それは、そうでしょうね」

「月島修司は外面こそ綺麗に取り繕っていますが、その実態は他人の過去まで平気で利用する人間です。これからも誰かを不幸にし続けるでしょう」

「そうかもしれません」

「だから、ここで静かに消えていった方がきっと、きっと……」

「吾川くん」


 一拍。息をついて、菖蒲は続けた。


「もし、吾川くんが自分のしたことに罪悪感を持っていて、それを責められることを恐れてもっともらしい理由を並べ立てているのなら、逆に教えて下さい」


 菖蒲はぽつりぽつりと、しかし目だけは結弦をまっすぐ捉えて言う。


「私に、四条菖蒲に、君を罵る資格があると思いますか?」

「……え?」

「私は加害者です。憑爺に騙されて、姉を身代わりにしました」


 視線を屋敷の外、庭へと移す。薄闇にまぎれて色の感じられない、小さな風景を閉じ込めたような築山林泉庭園をじっと見つめている。

 それが憑路の門前を模したものだと結弦が気づくのに時間はかからなかった。結弦が菖蒲と出会った場所であり、菖蒲が菫を売り払うきっかけとなった場所。


「その過去を精算するために何だってやりました。君も知っている洪社長だって、私がコンタクトしなければあそこまで没落せずに済んだでしょう。たとえ自業自得だとしても」


 淡々と、ただ淡々と菖蒲は語る。


「吾川くんが知らない、教えられないようなこともたくさんやりました。バイトもしていない女子高生が、ポンと百万円出せるのはそういうことです。そうやって人を踏み台にしてきた私が、無力なまま理不尽に押しつぶされてきた君に何を言えるんですか? 君に利用されていたとして、私が過去に利用してきた人間たちの前でどう罵倒すればいいんですか?」

「それは」


 菖蒲に自嘲的な雰囲気はない。事実をただ述べながら、理路整然と自分を否定している。想定していなかった反応に戸惑う結弦は、自分の努力が初めて直接に認められたことを知った。


「でも、だからって」


 だが、だとしても過去と今とは別だ。


「人を売るなんて許されていいことじゃない、ですか?」

「違うっていうんですか……?」

「違いません。ただ、私は何も言わないし言えない。それだけです」

「そんなこと言われて、どうしろって言うんですか。今さら、何年もかけて普通になろうなんてできないのに。人を踏みつけることもできなくて、俺はどうすればいいんですか!」

「どうすればいいかなんて私には分かりません。ただ、あくまで個人的な願望を言っていいのなら」


 個人的な、を強調して菖蒲は言う。


「悪意なく私の話を聞いてくれた人間が、自分から堕ちていくのは見たくない」

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