冷や飯喰い -4

「ユズル様へ、主(あるじ)より伝言です。『直接お話ししたい』と」


 彼女の主。

 憑路の女主人にして、憑路にあるもの、起こることの全てを知る絶対者。菖蒲曰く、憑路でただひとりの『食えない女』。


「夜乃が、俺に?」

「ええ、僕と来ていただけますか?」

「今日はちょっと忙しいんだが……」


 目線の先では、月島修司が物珍しそうに露店を物色している。


「申し訳ありませんが、ぜひお連れするようにとの主命を受けております」

「ッ!」


 とっさにポケットに手を伸ばす。

 月島を『食う』ことを考えているのを夜乃から隠し通す方法は結局見つからなかった。もし本当に夜乃が全てを見通しているのなら、止めに来ることは予想できていた。

 故に用意した手段である『道草』――月島には話していない、菖蒲から預かったままの現世への切符――を掴んだ手を、しかし少女の小さな手にそっと制された。逃げられない。


「大丈夫ですよ」


 身を固くした結弦に、少女はゆっくりと語りかける。


「主はあなたを罪に問うために呼ぶわけではございません。私が保証します」 

「……本当に、なんでも知っているしできるんだな。夜乃様ってのは」

「ええ、憑路の女主人ですので」


 罪に問うわけではないという。それが信用できるかは分からないが、真実であればまだ詰みではない。結弦の望みは終わらない。


「夜乃さんのところに伺いたい。案内してもらえるか」

「勿論。それが私の職務ですので」


 それは瞬きする間の出来事だった。


「え?」


 憑路の深層にいる。直感でそれだけ分かった。いつの間に、どうやって来たのかまったく分からない。


「ここが憑路の女主人の館でございます」


 濃厚な、むせ返るほどの闇の気配。隣に立つ少女の羽織の紐まではっきりと見えるのに、灯りのない地下室よりも昏いと感じる空間に結弦はいた。ぐるりと見回した風景を結弦の知識に照らすなら、そこは寝殿造りと思しき屋敷の一角。畳が敷き詰められた大広間は屏風と御簾で仕切られ、遥か彼方にあるであろう部屋の端は無数の調度品に隠れて見えない。


「おっと靴……は、脱いでるか」

「お預かりしてますよー」

「便利だな、まったく」

「帰りにコーナーで差をつけられる靴に交換しておくなんてこともできますが?」

「それはいらない」


 単純にあちらからこちらへの瞬間移動ではなく、まるで訪問であるかのような怪奇現象。日本各地に伝わる神隠しにも似たようなものがいくつかあったはずだ。そう考えて、ふと頭をよぎる怪異の名があった。


寒戸さむとの婆。遠野物語に出てくる、神隠し伝承の」


 現在の岩手県遠野市の一部、寒戸に住んでいた若い娘が梨の木の下に草履を脱ぎ捨てたまま姿をくらまし、三〇年以上たってから老婆の姿で帰ってきたという伝承だ。皆に会いたかったから帰ったのだと告げた老婆は、しかし再び山へと帰ってしまい行方知れずとなったという。

 憑路に来るようになって以来、妖怪変化について調べる機会を増やして得た知識だった。


「これはこれは。ユズルさんって勉強するんですね」

「バカにされてる気がしたが正解か?」

「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。真実は常に闇の中」


 妖怪というのは民間伝承であり、その数はあまりに多く、その内容はあまりに曖昧だ。要素の近いもの、否定できる材料のないものだけでも無数にあるだろう。人間の間で口伝されていない妖怪という可能性も決して低くはない。


 結弦が黙ったのを見てコクリと頷き、少女は懐中時計を取り出した。銀の鎖がついたそれを閉じると、結弦に向かって一礼。


「まもなく主人が参ります。僕はこれにて失礼をば」

「カモちーは一緒じゃないのか」

「使いの者は走るのが仕事ですからねー。ご安心を。我が主は、友の恩人を悪しようにする方ではありませんから」

「恩人、か。そういえばそんな話だったな」


 結弦を助けてくれるのは、誰かに将来大きな恩を売るからだという。そんなことを言っていたなと、思い出したところで。

 闇が、迫った。


「お主が吾川結弦かい?」


 近い。

 部屋の奥側、上座の屏風際に女が座っている。いつからいたのか見当もつかない。


「……夜乃様?」


 顔は影にかかっており見えない。わずかに見える口元や伸びた背筋から推し量れる年齢は結弦より少し上、二十代半ばといったところか。現世の総元締め、という呼称をあてるにはあまりに若いが、人とも妖怪变化ともつかないものの年齢を外見で判断するのは無意味だと思い直す。

 結弦の問いに、憑婆は数拍おいてから口を開いた。

 淡々と、倦怠した教師が不出来な生徒に言い聞かせるような口調。


「質問に質問で返すのはよくないことだ。時間を食い潰し、考えを腐らせる行いだ。それくらいは人間も知っている」

「……はい、私が吾川結弦です。いつもお世話になっております」


 結弦の返答に、夜乃は小さく頷く。


「うむ。では此方も答えよう。如何にも、妾が憑路の女主人の異名をとる夜乃である」

「それで、俺に何の御用が?」

「用は、間もなく来る」

「来る?」


 ふ、と。人の気配が背後に現れる。


「……吾川くん?」


 闇の中にあって、なお黒い髪。それを飾り気なく無造作に流した、四条菖蒲がそこに立っていた。後ろでちらりと浅葱色の羽織が消えていったのをみるに、案内したのは彼女か。


「四条先輩、情報を仕入れに行ってたんじゃ」

「……月島を撒くために使った方便ですよ。そのせいで吾川くんを巻き込んでしまったのは計算外でした」

「そう、でしたか」

「あとできちんと謝らせてもらうけれど、まずは用件が先です」


 菖蒲は結弦の横を通り過ぎ、ブラウスの襟を正してから夜乃に向かって頭を下げた。無言で待つうち、夜乃がゆっくりと口を開く。


「お前が四条菖蒲かい?」

「仰せの通り、私の名は四条菖蒲。現世に住む人間です。あなたがこの館の主か?」

「然り。妾が憑路の女主人の異名をとる夜乃である」

「本日はお目通りの許しをいただきありがとうございます。若輩の人の身ながら憑路に膳を求むる者のひとりとして、憑路を統べる御身のお目にかかれること光栄の極みでありますれば、本日はご機嫌いかがでございましょうか」

「うむ」


 頭を上げ、答えてから、問う。時代劇さながらの作法は、菖蒲がこの時を見越して準備を重ねていたことを意味していた。全てを知る女、憑路の総元締め。霊感すらない人間の身で憑路を戦う菖蒲にとって、夜乃が最大の切り札なのは結弦の目にも明らかだった。


「さて、本日伺いますは、お尋ねしたいことが二、三ございまし「いらぬ」」


 菖蒲が用意していたであろう口上を、憑婆の短く強い言葉がぴしりと遮った。


「今、何と?」

「いらぬと言った。此度はお前の請うておった目通りが許されたのではない。妾がお前に用があり招いたものである」

「その、用とは?」

「吾川結弦と話せ」


 菖蒲にしてみれば予想外に次ぐ予想外、といったところだろう。それは結弦にとっても同じであり、振り返った菖蒲としばし顔を見合わせる。その意図を問おうとするも、有無を言わさぬ空気にふたりとも押し黙る。


「何を話すべきかは、その男が知っておる。それが実りある結果とならば、そうよな。問いのひとつくらいには答えてやろう」

「……拝承しました。ご期待に答えたその暁には、どうかご教示ください」


 一拍。

 ここに至れば問うべきはただひとつ。七年間、全てを賭して追い続けた姉の行方のみ。


「四条菫の居場所を」

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