冷や飯喰い -3

「永遠の命」


 結弦は問い返す。


「それは叶いそうなのか?」

「叶えてこその野望だとも」


 妖怪の命は長いと聞く。それでもなお足りないという意味なのかなどと、無意味なことを結弦は聞かない。


「人間にとっては、たしかに憧れだよな」

「……ほう、いつ気づいた?」

「この前、深みで人間に襲われた時に」


 狐面に何か効能でもあるのか、どうにも気配を掴みづらいこの男。

 だが憑路に繰り返し足を運び、その深みで人間の気配に耳をそばだてた結弦は、あの日ひとつの確信を得ていた。


「憑爺、あんた人間だろ。それが憑路で何してる? なんで、それほどの力を持ってる?」

「それを聞いて、君はどうする?」


 四条菖蒲は、心は強いが無力だった。

 カモちーを名乗る少女は、ただの使いだった。

 洪博文は少し力があったが、菖蒲と夜乃に敗れた。

 そして夜乃が聞く通りに憑路で人間を食い物にすることを好まないなら、きっとこの願いは受け入れられない。

 結弦に残された選択肢は、残りひとつ。目の前の男だけだ。


「変えたい過去が、あるんだ」


 月が、赤い。




    ◆◆◆




「ああ、吾川くん」


 ガヤガヤと喧騒がいっそう激しい街路で露店を覗き込んでいた月島が、結弦の呼ぶ声に応じて顔を上げた。まるで他人事のようにあっけらかんとした態度がいやに苛立ちを誘う。


「不用意に動き回らないでくださいよ。まちがって深みに入ったりしたら帰ってこられるかも分からないんですから」

「ついに憑路に来られたかと思うと止まらなくてね。いやあ、まさか本当にあったとは!」

「それより、どうやって帰るつもりなんですか。『道草』なんてどこに売ってるのかも分からないのに……」

「そんなに心配しなくても、どうせ四条さんが迎えに来てくれるさ」


 それこそさらりと。電車を一本乗り逃したくらいの調子で月島はそう断言した。


「……はい?」

「四条さんは今日は遠出しているそうだけど、明日には帰宅する予定だ。僕が憑路に向かって行方不明になったことは君から伝わっているだろうから、君まで行方不明と分かれば憑路に探しに来るに決まっているだろう?」

「そんなの、俺が伝えなかったらどうするつもりだったんですか」

「無い無い。それは無いって話してれば分かるよ」


 見透かしたような言動。


「それに気づいたとしても探しに来ると決まったわけじゃない」

「いやだなあ、分かってるくせに。姉を憑路に置き去りにしたトラウマを七年も引きずってる人だよ? そこをつつけばどうにでもなるに決まってるじゃないか」


 菖蒲の過去は当然のように調べてあるらしい。


「それは、そうかもしれないですけど」

「吾川くんだって、僕を追いかけて帰るあてもないのに探しに来ようとしてくれたんだろう? ある意味、四条さんとは似たもの同士って感じなんだろうね」


 結弦は何を言ってみたところで、結局のところ平和な日本で生かされてきた『善良な市民』なのだ。「人が死にそうです。助けられるのはあなただけです」と言われれば放置はできない。人としては恥じることではないが、そこにつけこむ倫理観に欠けた人間がいれば食い物にされるのは自明の理といえた。


「……あんた、なんなんだ。四条先輩をどうしたいんだ」

「言ってるじゃないか。お近づきになりたんだよ」

「そんなことして好意的に見られるとでも?」

「あっはっは、そんなことかぁ」


 目の前の男の悪辣さにようやく頭痛が追いついた結弦を尻目に、月島は手にしていた赤い柑橘類をカゴに戻すと丸めていた背中を伸ばした。


「まあいいや。四条さんが来るまで最短で二十四時間、長くて一週間くらいかな。それまでに見つけないと」

「見つける?」

「お近づきになるためのもの、さ。ここは現世のどことも違う香りが漂っているけれど、これならきっと売ってるだろうさ」

「まさか」

「甘い恋の香り、なんていいなぁ。甘い恋を買って四条さんに埋め込んだら、いったいどうなるんだろうね?」


 お近づきになりたい。その言葉に嘘偽りはなかったらしいと理解する。ただその方法が、あまりに合理的だった。それだけのことだった。


「……あんたなら、いいかもしれないな」


 ただ、羨ましかった。

 裕福な家庭に生まれた人間の自尊心が。

 愛されて育った人間の自己肯定感が。

 何より、飽食に生きた人間の満足感が。


「あんたさえ生まれなければ」


 そう言われた数はもう覚えていない。


「親の言うことに従えないのか」


 窃盗を拒否すれば、飢える。正しいことをしたはずなのに、なぜこんなにも苦しいのか。

 そんな黒い感情にどうにか蓋をして、まともなフリをして生きてきた。

 ひとつひとつ、学んだ。納得できなくても強引に飲み込んだ。個性だとか個人の自由だなんて妄言は切り捨てた。

 何度も失敗しては友人関係をリセットして、ようやく人並みの対応ができるようになってきた。高校に入ってからは奇異な目で見られることはほとんどなくなった。

 誰かの前にいる間、吾川結弦は吾川結弦という別の誰かの皮を被って生きられるようになった。

 それでも。

 何かが違う。何か小さな、しかし絶対に埋まらない溝が『普通』の人との間にあると気づくのに、さほど時間はかからなかった。


『私が、実の姉すら売り払う人間だからです』


 そこに現れた先輩、四条菖蒲。彼女を通して憑路という幻世を知ったのは、形無いものさえ売り買いできる理を知ったのは、そんな時だった。

 迷いがなかったわけではない。努力の末に掴んだ結弦の『普通』は、他人を踏み台とすることを拒んだ。実際に憑路を私利私欲のため、果ては殺人のために利用する人間を目の当たりにして、その行為を嫌悪した。その『普通』が自分をつなぎとめていることを結弦自身も感じていた。

 だが、奴はどうだ。

 金持ちの家に生まれ、聖人のような顔をしながら他人を足蹴にする男。古傷を抉って菖蒲を操り、罪悪感の欠片すら見せず尊厳を奪おうとする月島修司。

 私欲のために結弦も利用したあの人間を『食う』ことに、何の躊躇が要るだろう。

 なるほど、人は人を殺してはならない。人間という生き物の世界はそういうことになっている。それに逆らうことが結弦の未来に何を残すのかは分からない、が。


「それでもこれで、やっと……」


 そこは憑路の門前。

 いつも憑爺が立っている場所で柱によりかかり、結弦は暗い空を見上げる。電灯の無い世界であれど、電気など不要とばかりに煌々と光る提灯に行灯、篝火。それらから立ち上る陽炎にゆらゆらと揺れる夜空には、日本とどこか異なる星々が輝いている。


「かの星たちは幻世の星。人の世とは異なる法則が支配する宇宙は、ああして星の並びすら変わってしまうんですよー。小さな差が夜空の姿すら変えるほど、世界とは互いに関わり合って回っているのです」

「……カモちー?」


 不意に隣から聞こえた声に、結弦の身体がビクリと震えた。

 弾かれるように左を見れば、もう見慣れたダンダラ模様の羽織をまとった少女が、先ほどまで結弦が見上げていた星空に視線を向けていた。

 何かの星座をなぞるように視線を流した少女は、改めて結弦と向き合うと大仰に礼をした。


「人間の感覚ではお久しぶりでいいんですかねー? こんばんは、ユズル様」

「ああ、こんばんは」

「ご機嫌いかがですか?」

「まあ、普通かな」


 憑路に来る以上、結弦も遭遇を予期していなかったわけではない。しかしいざ眼前に現れた少女は、いつもと少しだけ雰囲気が違っていた。


「ユズル様へ、あるじより伝言です。『直接お話ししたい』と」

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