冷や飯喰い -1
ひやめしぐい【冷や飯食い】
① 冷遇されている人。ひやめし。
② いそうろう。食客。ひやめし。
③ 〔家督を相続する長男に比較して冷遇されたので〕 次男以下の者の俗称。ひやめし。
(出典 三省堂大辞林 第三版)
「だから、僕を憑路に連れて行って欲しいんですよ」
そう来たか。冷めた紅茶を前に、結弦は内心で頭を抱えていた。
四条菖蒲は社交的であると同時に、その私生活を誰も知らない。休日に彼女を誘った人間は男女問わず多かれど、誰一人として成し遂げた者はいないと、結弦の向かいに座る男は言った。
「それでその、そのことが俺となんの関係が?」
「うん、大丈夫。隠さなくてもいいよ、吾川結弦くん」
声、というのは人間を識別する上で重要な情報だ。菖蒲も憑爺の正体を学校理事長の月島継嗣だと目する理由もその声だと語っていた。もっとも結弦が知る憑爺は理事長よりはるかに若く、強いて月島の者が絡んでいるとするならば憑爺は月島継嗣の息子で生徒会長の月島修司ではないかと考えていたのだが。
結弦の前で紅茶を啜る当人は、その声色も話し方も憑爺とは似ても似つかぬものだった。
「ん、僕の顔に何かついてるかな?」
「ああいえ、そういえば生徒会長と話すのは初めてだなと」
「そうだね。お互いに知ってはいても接点がないとそういうこともある」
爽やかに笑う顔はまさしく好青年。
こと勉学と知識に秀で、全国模試では常にトップに名を連ねる天才。それを感じさせない人の良さも相まって学校内外からの評価は限りなく高いと聞いている。そんな人物に突然呼び出され、断れば怪しまれると考えて生徒会室に結弦が踏み込んだのは、およそ三〇分前のこと。学校生活は楽しいか、好きな歌手はいるのかと、他愛もない話をしていたところに不意に飛び出した『憑路』の単語に、結弦は困惑を隠しきれなかった。
「下手なごまかしは時間がもったいないから先に言っておくと、魚市場で有名だった築地市場のことじゃない。あやかしに憑かれた路と書く、幻世の市場の方の話さ」
「……調べはついてるってことですか」
「そういうことだね」
初めて憑路に行った日、結弦は彼の父親である月島理事長と二言三言だが言葉を交わしている。その言葉は短くとも強く、有無を言わさぬ何かがあったが。それと全く同じものが、息子の彼にも受け継がれているらしい。ごまかしや虚言は無駄だと、それこそ噛んで含めるように教えられている、そんな気分にさせられている。
「無駄なようなのでごまかしはしませんが、質問はさせてください」
「いいとも」
「なぜ、憑路に?」
「四条さんと仲良くなりたいから」
それは至極単純、かつ否定を受け付けない回答。
「つまり俺でなく四条先輩に用があったってことですか」
「僕も初めはマユツバな都市伝説だと思っていたんだけどね。でも地道に調べていくうちに実在すると確信して、しかも四条さんがそこに出入りしているというじゃないか。最初は彼女本人に尋ねようとしたんだけど、休日に通っている場所をいきなり知られているというのもなんだか気味が悪いだろう?」
それは、本当にシンプルな理由だった。
これが例えばスポーツジムだとかゲームセンターの話であればなんのこともない。お近づきになりたい女性がいる、その彼女が通っている場所がある、そして君は同じ場所に通っているそうだから紹介してくれないか。そういう、それだけの、ごく普通の話であった。
それだけに、結弦はこう答えざるを得ない。
「無理ですね」
即断、即答。あまりに不可解な普通さに、それ以外の回答は存在しない。
「もちろん相応のお礼はするよ。君と四条さんの交友関係には配慮するし、迷惑はかけない」
「だとしても無理ですね」
結弦はもとより引っ込み思案とは対局にいるタイプではあったが、幻世で修羅場をくぐった経験は現代日本人には得がたいものだ。その無意識の胆力に気圧されたのだろうか、月島修司の完璧なスマイルに小さく亀裂が入る。
「よければ、無理な理由を伺っても?」
「理由ですか。強いて言うなら……」
「うんうん」
「全てですかね」
「全て」
「全てです」
オウム返しで返した月島に、結弦は右手の指を折り曲げながら菖蒲との思い出を回想する。
「ひとつめに、四条先輩には四条先輩の目的があって憑路に出入りしてるんです。その邪魔になるようじゃダメだと思います」
「僕じゃ力にはなれないのかい?」
「ふたつめの理由。四条先輩は憑路の怖さを知ってる人です。小学校の子がアマゾンに行きたいって言ったからって、本当にジャングルの奥地に連れ込む人なんていませんよね? 多少優秀で、お金を積まれたとしても」
「僕は小学生と同じか」
表情を崩さないまま少し語調を強めた月島の姿に、結弦は菖蒲と初めて出会った時の自分を重ねながら紅茶を一口啜る。
「少なくとも俺はそうでした」
教えてくれないなら憑路へ戻る、と強引に憑路のことを教わったことがいかに危険だったか。
洪の一件は修羅場ではあったが結局のところ相手は人間だった。しかしその過程で目にしたのは、文明の光に満ちる現世からは失われた深い闇。「非力」を自称するカモちーが見せた人間離れした動き。あれらが自分に牙を剥いていたらどうなっていたか、想像するに難くはない。
「憑路での俺なんて、トラの檻に入れられたハムスターですよ、ハムスター」
「それは災難だったね」
「できることならもう行きたくないです」
「そうか……」
目に見えて落胆している男の姿に、結弦は内心で戦慄し続けていた。
月島家の人間が、憑路の存在を知っている。
菖蒲の予測が当たっているならば当然のことなのだが。問題は、それを菖蒲とつながりがあると知った上で結弦に明かしたことだ。父親が憑爺で、息子は何も知らされていないのか。それとも何か企みがあっての罠なのか。
分からない。情報が少なすぎる。だが同時に、この天才を相手に下手に探りを入れるのは藪をつついて蛇を出すに等しかった。
「ですから、憑路のことは諦めた方がいいです。命あっての物種って言いますし、行くにしてももうちょっと時間をかけて準備をしてから……」
「行くことそのものについては何もハードルを感じていない。つまり、君ひとりでも行こうと思えば行けるということだ。入口でも知っているのかな?」
こういうことだ。長く話せば話すほど、向こうのペースに飲まれてしまう。だが結弦にとって戦力差のある戦いはこれが初めてではないのもまた事実。
能力差があるというのなら、それなりの戦い方がある。逃げ方がある。
そして、結弦はそれを知っている。
「……入口は知ってますよ。入口は」
露骨に含みのある言い方に、月島が視線で先を促す。
「憑路は入るのは自由で、代わりに帰る時にはルールがあるんです。知りませんでした? 行ったまま帰ってこれないんじゃお近づきもなにもないですよね」
「……なるほど、行きはよいよい帰りは怖いと」
「それ、四条先輩の前で言わないでくださいよ。四条先輩にとって一番会いたくない人が同じこと言ってたんで」
「ふむ、しかしルールがあるということは確実に帰る方法はあるということだろう? それはそんなに難しいことなのかい?」
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